うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか 中島岳志×島薗進 著(対談)


ここ数年、自分なりに「これは、こういうことだろうか」と気になっていたいくつかのことについて、背景の似たトピックがたくさん登場する本でした。読みながら、人々の心の総量で動かされる事態というのは昔からあるのだと、そういう納得感につながるものがありました。
いくつか具体例をあげると、こんなこと。

  • 夏目漱石の「こころ」に登場するふたりの男性の思考の背景説明
  • 天皇の仕事量があんなに多いのは、昔からだったの? という疑問
  • 境遇で帰属意識を満たしながら勃興していく女性中心のコミュニティ

上記はわたしのなかにかねてよりあった疑問の一例ですが、すべてこの本のタイトルの「愛国と信仰の構造」に含まれることなんですよね。
この対談に夏目漱石の「こころ」の話はいっさい出てこないのですが、序盤で1880年代生れの藤村操・三井甲之・北一輝井上日召を並べて語られる箇所があり、その部分を読みながら夏目漱石の「こころ」に出てくるふたりの男性のことを思い出しました。
Kという人物(真宗の坊さんの息子)と、その友人で先生と呼ばれている人物がふたりで誕生寺(日蓮の生まれたとされる寺)を訪れる場面がある意味が見えてくる。この対談を読むと、その時代の感じがよくわかるのです。「下 先生と遺書」のはじまりに「私は卑怯でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶したのです。」とあるその「煩悶」が育ちや人間関係の煩悶だけではないということが、ぐわっとつかめそうな感じで説明されています。


天皇の仕事量があんなに多いのは、昔からだったの? という疑問につながる祭祀の話も、わかりやすく説明されている箇所がありました。
「戦前の皇室祭祀で大祭の数は一三にものぼりますが、わずかな例外を除いて、ほぼ全部、新たに明治期に定められたもの」という話です。これは第四章で語られているのですが、この時代は宗教と政治の融合があちこちで起こっていて、「ここも、ここも」という感じで話が続いていきます。


わたしはここ数年、女性のプチ・スピリチュアル・リーダーみたいな人がたくさん誕生している現象はなんだろう…と思っているのですが、これにつながる気になるトピックもありました。

島薗 居場所やトポスということに関して、宗教運動という見地から見ると、一九二○年代から一九七○年前後まではひとつながりに見える部分があるのです。
 中島さんが関心を寄せている血盟団事件の時代というのは、同時に、新宗教が爆発的に成長してくる時代でもありました。つまり、のっぺらぼうの東京や大都市化していく地域で、新たな仲間を見出す運動が活発になっていったのです。だいたい三○代、四○代以降の女性が中心になって、小集団でお互いのプライベートな問題を打ち明け、仲間を作るという動きが広がって宗教集団が形成されていった。これがだいたい九二○年から七○年にかけて連綿と続いた新宗教運動の特徴です。時代的には戦争をまたいでいるわけですが、この五○年ぐらいは、かつて村にあったような共同性を新たな形で都会の中で再現するものとして新宗教が機能していきました。
中島 田中智学が作った国柱会とはまた違うタイプの宗教集団ですね。
島薗 ええ。エリート候補の煩悶青年というより、「おばちゃん」をはじめとする民衆が支えた運動ですね。
(第六章 現代日本の政治空間と宗教ナショナリズム より)

東京にいるとわからないのですが、たとえばヨガの練習でも地方へ行くとこういう同世代サークルのような力の存在を感じることがあります。インドネシアなどイスラーム人口の多いアジアへ行くと、朝の礼拝の後なのか、女性たちが集まって朝食をとっている場面を見ます。生活に根づいた精神的下支えのようなものがすごく合理的にシステム化されているように見えます。
日本の場合は個人主義格差社会も進むだけ進みきった感じなので、このような生活密着感はむずかしそうに見えますが、せめて心の部分だけでも… ということで「生きかたロールモデル・庶民版」みたいな人に関心を寄せる人が多いのだろうか、やはりそこで空虚感を埋めたい人が多いのだよな… なんてことを思いました。


この本は中島岳志さん(政治学者)が著者なのでそれをきっかけに読んだのですが、共著者の宗教学者島薗進さんの説明のしかたや考えかたもたいへん慈悲深いというか哲学的というか…、読んでみると夢の競演という感じのする本でした。
おふたりが考えを述べる部分で、とても深く印象に残った部分を引用します。
中島岳志さんの発言から>

 人間は、「死ぬことの恐怖」と「死の恐怖」を違うものとして認識している動物だと思うのです。他の動物にも、「死ぬことの恐怖」はもしかしたらあるかもしれない。しかし、それは苦しみとか、痛みとか、そういったものの延長上にあるものであって、「死の恐怖」ではありません。
「死の恐怖」というのは、まさに虚無というか、自己の存在自体が消滅してしまうことへの恐怖であり、あるいは、そう考えておびえている自己すらがなくなることへの恐怖です。
 しかし、よくよく考えてみると、実は「死の恐怖」以上の恐怖は、「死なないことの恐怖」ではないでしょうか。つまり、自分の人生に時間的な枠が与えられず、永遠の生命を生きられるとするならば、私たちはたぶん正気を保つことができなくなってしまうのではないか。
 iPS細胞の先に待ち受けている世界は、ますます死という観念を忘却していく世界のように思います。しかし、そこには、人間にとって大変な恐怖が待ち受けているという印象が私にはあります。
(第五章 ユートピア主義がもたらす近代科学と社会の暴走 より)

これは第五章「宗教は科学に介入できるのか」というトピックに続く「"死"の個人化がもたらすもの」の中での発言ですが、「永遠」の設定を死んだ後のゴール(肉体を離れた後のゴール)でないとするならば、ほんとうにわたしもそれはおそろしいと感じます。たとえば仕事のように単位で区切ったなにかの行為でも「これ、いつまで続くの…」という感覚が正気を保たせてくれていると日々思うんですよね…。


以下は、あまりこういうことを丁寧に説明する人がいないので、読んで思わず嬉しくなった箇所。

 浄土真宗大谷派は、最近、「今、いのちがあなたを生きている」という法語を掲げています。私が私を生きているのではなくて、命が私という現象を生きているということですね。つまり、自己を越えたところに命というものがあり、それが私という現象として今ここに存在している。だから、その命はまた帰っていき、どこかでまた生きるという、そういう命の連鎖という問題を大谷派のこの法語は考えていて、私はとても重要だと思います。
 実は、インドも同様の発想が強くて、ヒンディー語に与格構文という不思議な構文があるのです。たとえば、「私はヒンディー語ができます」ならば「私にヒンディー語がやってきてとどまっている」、「私はあなたを愛している」ならば「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている」という構文になる。つまり、私という主体が何か合理的に相手を分析し、それによってあなたへの愛を私の中から生じさせたのではなくて、どうしようもない不可抗力によって、どこかからそれはやってきて宿っているものだと考えるわけです。
(第五章 ユートピア主義がもたらす近代科学と社会の暴走 設計主義的生命観は縁を奪う より)

わたしははじめて東本願寺のポスターで「今、いのちがあなたを生きている」というフレーズを見たとき、「この手があったか!」とすごく驚きました。日本語で、こんなに短く言えるフレーズを見つけたすごさに、なんだかものすごい謎解きを見せてもらったときのような感動をしました。
これはサーンキヤ哲学(=ヨーガの理論の部分)の核になるところでもあって、わたしは本願寺の広告を見ながらこのことを思っていました。サーンキヤ哲学の場合は「ダンサーはダンスを観客に見せ終えたら、自分で満足して(観客の反応に関係なく)ステージを去っていく」という喩えを用いていますが「そこに合理性や固定的な関係性を設定しない」ということを言っているんですよね。
しかしまあこういうことを、この政治学者さんはよくもこんなにわかりやすく説明するものだね…。坊さんじゃないのが不思議なくらいだよ。(←脳内音声:ちびまる子)


島薗進さんのお話の中にも、これは! と思う箇所がありました。

 私自身はポリフォニー(多声)という考え方に共鳴していまして、多様なものが存在すること自体を受け入れ、かつ一致できるものを最大限求めていくという立場があり得るのではないかと考えています。これは日本が第二次世界大戦──私はアジア太平洋戦争と言いたい感じですが──の中から得てきた経験ともつながります。
 たとえば、私が尊敬する吉田満という銀行員でもあった著述家は、第二次世界大戦で死んだ兵士たちに対して、その死を何かひとつの聖なるもので追悼することはできないという感じを持っていた。つまり、破壊的なものを経験してしまった後に生きていながら、そこでもう一度全体を包含するような何かを想定するのはそもそも無理だと。これは戦中世代から出てきた感覚であると同時に、世界的にいうとアウシュビッツ後、収容所群島後に得られた人類的な経験だと思うのです。
 その中で、しかしなおかつ、あるいはそうであるがゆえに、宗教的なものが大きな役割を果たす。こういうふうに考えたいのですね。
(第七章 愛国と信仰の暴徒を回避するために 「一なるもの」は語りえない より)

過程で起こる暗黒面を知る前と後ではまったく違うのに、知らないことにする感じはどうして…、というこのありかたへの疑問が、もしかしたらこの本が発生する根本理由なのかもしれない。「破壊的なものを経験してしまった後に生きていながら」と、まさにそうなんですよね。


「生きることを引き受けることに合理性などいらないはずなのに、合理性を求めてしまうのはなぜ」という疑問はわたしにも日々起こることですが、こういう不安が言語化できずに漠然とひろがったとき、人々は全体主義に流れてしまうのかもしれません。
わたしはすべての個人が「永遠のベータ版」という意識でいけないものかねぇ…、と思っているので、この本の著者おふたりの主張はたいへんうなずくものばかりでした。