みなさん、愉快に暮らしておりますか?
わたしはそのあたり、自分で工夫をしながら暮らしています。ユカイツーカイ怪物くん世代ですから。ぐふふ。
これは10年以上前から少しずつ、ずっと感じ続けながら葉のように広がり茂ったわたしの考えなのですが、多様性を認めていくことはジャッジメンタルとのたたかいで、長い歴史で見れば一時的ということになるけれど、馴れ合いベースや共通認識ありきのユーモアは届くべきでないところへ届いてしまえば制圧されます。
それを踏まえて超えていくことに知恵を使うことが人間の可能性といえばまあそうですが、10年前の「脇が甘い」といまの「脇が甘い」は許容範囲がずいぶん違います。いまは脇を締めて手首までぴっちり体側につけ、指の割れ目まで閉じておくくらいじゃないと。
そんなこんなで、人が人の心をほぐす行為の条件はどんどん厳しくなって、もう動物頼み。
猫や犬の力を借りながら同じ「快」をほんのり共有する。そんな癒しが増えています。それでしのげる人がうらやましい。
わたしの場合はそうもいかない何かがあるようで、かといって言葉を使う方法は楽しくない方向に向かうことを余儀なくされていて、ブログを書くのもそろそろ終わりかな? という世間の足音を感じています。
さあ困りました。危険な香りです。
それでも自粛生活はまだまだ続く。日々わたしの根っこから湧き出るアホのマグマを小出しにしておかないと、たまった気持ちが昭和のオヤジギャグになって、いつか最悪のタイミングで炸裂してしまうかもしれない。こわいこわいこわい。
さあ困りました。危険な香りです。
そう。大人だって、ふざけたいのです。
そんなこんなで、非言語コミュニケーションとして頭の中の「愉快」を形で出すべく、お絵描きをはじめました。(はじめた時のことは以前書きました)自分で絵図を書いて自分で塗り絵を楽しむセルフセラピー。どこまでも自己完結です。
最近描いたのはこれです。
わたしが、あーあ、インドへ行ってネジをゆるめてアホを解放したいなぁ〜、と思う時に心の中でイメージしている「場」を描きました。理由がひとつやふたつじゃない複雑なことって、言葉にできないんですよね……。言葉にできないからこそ、行動につながっていたのかもしれない。
行動を抑圧されると、人はなにかを生み出そうとするものなのかしら。
▼今日の前半に書いたようなことを、10年前からたまに書いていました。