ストックホルム症候群というのは、銀行強盗に監禁された人が犯人に親近感を抱くことで自分を保とうとする、ちょっと複雑な心のはたらき。
今日のトピックは、この感情って日常的に小さく発動させるやつだよね…という話を友人&家族の三人でしたときの思い出を解凍しながら書いています。
年末にタイへ出かける少し前に、日本では伊藤詩織さんが裁判で勝ったニュースがあって、友人と合流したときにその話になりました。
わたしが「自分を強姦した人に挨拶メールみたいなのを送るのって、あれは銀行強盗に監禁された人が "それでも親切な人でもあるのだ。自分はかわいそうじゃない" と思おうとして認識を書き換えるのと似たやつじゃないかと思うんだけど…。名前あるよねその心理」と言ったら
それよ。なんだっけねぇ・・・
と二人とも「やるのもまあわかる」という感想。そのときは「ストックホルム症候群」という名称を思い出せないまま話していたので、あとで友人が調べて思い出させてくれました。
わたし、かわいそうじゃないもん!
ということにして明日もなんとかそこへ行くという経験を、20代にもなればものすごくたくさん味わって身につけている。これは性別に関係なく、いじめられているけれど学校へ行くとか、そういうことの延長線上にあるものじゃないか。
心の味としてはもう定番の域で、昔はスパゲッティって言ってたのに今はパスタと言うくらいの定番感。だから、いちいち説明しない。
しかもこれは思い出したくない味。強姦の場合は「残念なことだけじゃないもん!」という、かなり複雑な変換を無理やりずっと試みることになる。だから伊藤詩織さんの行為に共感する感覚を口にしようにも「それって、なんかそういうメールを手癖で送るの、わかるよ。なんかやっちゃうよね」としかいえない。でもその感じはとても軽いものに見られてしまう。軽いんじゃなくて、手癖でやっちゃう感じなんだけどな…。
あの事件をきっかけにそんな話をしました。あの「ぷちストックホルム症候群」のような心の補正のはたらきは、世代も性別も関係なくあるものじゃないか。マッスル・スピンドルみたいなものじゃないの?
ストックホルム症候群のようなものを脳内で生成しなくてよい社会にしましょうという風潮や社会の変化は、わたしの実感ではここ最近な気がしています。ここ2、3年。
20代30代の頃はぷちストックホルムをじゃんじゃん生成しまくりだった。この脳内物質をもう出さないほうがいい時代なんだ、そういう時代にしていくのだというここ数年のフェミニズムの大縄跳びに、ウン、ウン、いち、に、・・・と首と上半身を振ってリズムを合わせようとしているのだけど、なかなか全身で入っていけない。
以下の本は、読むとストックホルム症候群がぷよぷよみたい連鎖して、自分の中ではじけ散ります。心の血がはじけ飛んでしんどい。
そしてこの本を読んだあと、あらためて「坂の途中の家」はすごい小説だと思いました。
なぜか
わたしがヨガ仲間に「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだと言ったら、同じくわたしも読んだという話とあわせて、「わたしの友人に、旦那さんからこの本を "読んだほうがいいよ" と渡されたという人がいて、モヤモヤしている」という話をしてくれました。
そしてそのときに、
そういうふうにも使えてしまう小説だよね
という話になりました。
そいういうふうに使えてしまうところに、この小説のしんどさがある。本のせいでも作家のせいでもない。
その点「坂の途中の家」はそういうわけにはいかない。
この小説は「ぷちストックホルム症候群」を発動させるしかない、表面的にやさしい社会のムードを巧みに書いている。
「82年生まれ、キム・ジヨン」にいまひとつ手が伸びない人の気持ちが、わたしにはよくわかります。そんな人に「坂の途中の家」を差し出したい。
ちょっと込み入った話題ではあるのですが書いてみました。この感じ、伝わるかしら。