先日、中勘助の『提婆達多』をヨガでご一緒するみなさんとともに読みました。
その際にわたしが経験と重ねて思っていたことをお話ししたら、ご自身の仕事の場面と重なる人が何人かいらっしゃって、そう読むか~と言われました。
わたしは以前、自分が関わっているウェブサービスに寄せられる問い合わせ、エスカレーションされてくるクレームを見る機会があって、妄想が展開されているハードなケースも含めて聞かせてもらった時期がありました。
その道の先輩からいろいろ教えてもらい、本も読んだりしていました。
その経験から考えたことを話しました。
いまはクレームとかクレーマーとかいうけど、
むかしの言いかたでいえば苦情で、
苦しいという情なんですよね・・・
なのでわたしは『提婆達多』を読んでいると
あの頃感じていたことが再現されます。
"訴える人" の存在が浮かんできます。
なのでわたしにとって、
この本は苦情の事例リストみたいな存在なんですよね・・・。
雑談で話したのですが、少し経ってから同じような局面を経験した人たちがなにかを思い出したようで、ぽつっ、ぽつっと頭に浮かんだ話してくれました。
自分がクレーマーになりそうな時のマインドについても。
* * *
読書会のときは話さなかったのですが、わたしは家族と住んでいたときに、帰宅早々クレームを入れた報告を受けたことがありました。
「今日はサッカーの実況のしかたがあんまりひどいからテレビ局に電話してやった」と。まだ話し足りないらしいその内容を聞き、職場と家庭の両方でそういう気持ちや言葉を浴びていた時期がありました。
その頃に、職場で苦情について分解し考えてきた人の教えに助けられました。対応のプロになりすぎちゃったように見える人も、もちろんいました。
わたしはこんなふうに考えました。
「苦しみ」が先にあって、物語は関係性を利用して後づけしているだけなんじゃないか
自分が作り上げた苦情物語の順番をかえり見たり、強引な筋書きを押し通したいマインドに気づいて修正するのは至難の技です。
時間薬や物理的隔離、他者の視点の介入、あの手この手でやらないとどうにもならないこともあります。関係性は、妄想の世界でどうにでも再定義できてしまうから。
逆もあります。
「楽しみ」が先にあって、意義は関係性を利用して後づけしているだけ
苦しみは苦しみ。楽しみは楽しみ。
そこにすぐに物語や意義をくっつけたくなってしまうけれど、ほどほどにしないとね。
現代はインターネット上に同じ気持ちを訴える「材料」が溢れていて、他人から借用した物語も意義も使い放題です。それをしていると、自分の目標が立てられなくなります。