何度か書いてきたことですが、わたしはここ10年くらいで長い小説を読む(読める)ようになりました。
それまでは脳内で推測したり決めつけたりすることを急ぐ、いわゆる「ジャッジメンタル」のはたらきが活発で(せっかちとも言う)、本を読むにしても、選ぶ時点で「自分の好む判断・主張が含まれるであろうもの」を選んでいました。
興味関心とはそういうものと思っていました。知らない時代とか国とか設定とか名前も知らなかったテーマとか、「よく知らんけど知るために読む」という動機ひとつで本を読めるようになったのは、ここ数年のことです。
どのへんかなと振り返ると、そもそも好きでもなんでもない森鴎外や島崎藤村の本を青空文庫で読んだあたりじゃないかと思います。
表紙になんの絵もないタイトルだけを見て、「なんとなく」読むことを後押ししてくれた青空文庫の存在のありがたみったらありません。
近頃は一般の書店がうるさく感じるようになりました。並んでいる新しい本の軍団がインターネットの世界と変わらない。帯はSNS上での関係性アピール、ハッシュタグ付け合いっこと同じように見えます。
新書を買う層が高齢化してきたことで、ヤフーのニュースみたいな状態に見えてきた、というのもあります。
手に取ることが「クリックする(タップする)」のと同じ感覚で、以前は釣られたと思っても "ネットと同じ" とは思っていなかったのが、だんだんその境界を感じなくなってきました。
そんなこんなで書店へ足が向かなくなったら、ちょっとした発見がありました。
「わたしはこういうのを好む傾向」「わたしはこういう方向を目指す人」という、自分自身へジャッジを向ける瞬間が減っているのです。
うわっ、わたし、書店で自分がいま入れるカテゴリを探してたんだ……、ってことに気づいちゃった。(今さら!)
わたしは「読書=いいこと」という風潮に対してずっと漠然とした疑問があったのだけど、それはたぶんこのマインドを嫌っていたんだなと、やっとその理由が見えてきました。
本を選ぶ時点で既に強化が始まっている意識の偏りと、それを煽る売り方とそこに食いついてしまう読み方に対して、もうだいぶ前から「これじゃあネットと変わらないじゃん」という思いを抱えていたのです。
自分の入るカテゴリを探すという行為に虚しさを感じる。
そういうことってありませんか。