うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ジャッジというのは、好きになりかけてしまっているからしてしまうもの

今日のトピックは、インド旅行中のノートの走り書きからの振り返りです。
あまりに文化の違う環境で人間と関わっていると、少しずつ心にささくれが増えていって、どこかで目立ち始める。それをときどき、エイッと剥きたくなる。そういうエイッが起こるのがあの国の特徴。


わたしにとって、インドの人は不思議と魅力的な存在なので、仲良くなったときにはもうかなり好きになってしまっている。そうなると、やっかいな感情の発動頻度も増えていく。
すでにインストールされている日本の道徳観が、その "好き" の鮮やかさに薄いカーテンを引くように、これさえなければ…という思考となって湧き上がる。

 

いままさに楽しい会話をしている人が、ポイッと道にゴミを捨てる。その人は「ここでは、みんなこうやっている」という。その瞬間に起こるジャッジのあとの痛みは、自分がもうその人を好きになりかけてしまっていることを知らせる。そして、そこで「それでもあなたには、それをしないでほしい」という気持ちをのみ込む。踏み込みすぎだ。


そのあと、部屋に帰ってひとりで考えた。ジャッジをし始めているときに起こるあの痛みについて。待てよ。いまわたしは、 "好き" の対象を見つけている自分に対して「よかったじゃん」と話しかけることもできる。年々 "好き" を発動しにくくなっていることは、もうだいぶ前からわかっていたから。

 

 

 文句があるのは、"好き" があるから

 

 

わたしがヨーガの理論部分といわれるサーンキヤの視点(サーンキヤ哲学)に特に興味を持っているのは、好き嫌いのメカニズムに迫っている節を教典の中に見つけたから。

上記の preeti, apreeti にはさまざまな意味があって、好き嫌いとも言い換えられます。
なぜ人には好き嫌いの感情が起こって、それが行ったり来たり揺れるのだろう。なぜ好きな人が嫌っている人を、わたしは好きなんだろう。── こういう子どもの頃からの疑問を、大人になってからサーンキヤを知るまでは、損得勘定が味付けや加熱をしているのだろうと思ってきました。

でも、やっぱりそうじゃない。そういう理屈じゃないんだということをそのままにさせてくれる、そういう新たな理屈に出会えたと感じたのが上記の節でした。

 

なにかを好きになるときは、「これさえなければ…」のジレンマにも向き合っている。「これさえなければ…」という感情をこれまでポジティブに捉えたことがなかったことに気がつきました。
これは年々 "好き" を発動しなくなっているからこそ見えてきたこと。小さな "好き" を拾う力が、これからを楽しく生きていくコツなんじゃないか。そんなことを学んでまいりましたよ!

 

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