今日は先日のクイズの出典である「性愛のインド」の第二部「ガンディーの聖性と魔性」の感想です。
クイズで引用した文章はガンディーが世話役の女性ミラ(Mira Behn リンクはwikipedia)に宛てた手紙の一部。ミラという名前はガンディーがつけた名前で、もともとはマダリン・スレードという名前の人です。30代のはじめにイギリスからインドへ渡り、ガンジーに23年仕えたとされています。
この本の第二部は、インド思想の中の性愛のとらえかたを第一部でこってり著者さんの思い入れとともに紐解いた後に、ガンディーの行動に重ねていきます。ガンディーという人物はわたしも多角的に興味が尽きない対象。この本を読みながらさまざまなことを思いました。
<「進化論的超越」と「攻撃」理論 より>
私はいつごろからか、ガンディーの「非暴力」は人間の攻撃行動の一変種ではないかと、疑うようになっていた。非暴力と攻撃の関係が妙に気になりだしたのである。
このシンプルな疑問はとても重要。
<性ののり超え ── ガンディーの奇妙な試み より>
ガンディーはかねてから、イギリス帝国主義が男性的な暴力の権化であるとすてば、それにたいするインドの抵抗は女性的な非暴力の象徴である、と主張していた。
それはかれによって指導される独立運動の根本的な戦略であった。そして女性こそが、非暴力そのものを体現する女神であると考えていたのである。
このあたりからの展開が、この本の読みどころ。
<誤解されたガンディーの「断食」 より>
かれの断食によって不利益をこうむった政治家や行政官たちは、ガンディーの断食は一種の政治的な脅迫手段であると公言したし、同国人の政治家アンベードカルも、それを「政治的曲芸」であるといって冷やかした。
(中略)
しかし私は、ガンディーの断食という方法が、実は彼の「非暴力」の思想と切っても切れない関係にあるユニークな身体技法であったと思わないわけにはいかない。「非暴力」の方法がかれにとっては、「国家」や「性」ののり越えというテーマに挑戦する重要な回路であったように、かれの「断食」の方法もまた同質の課題を解くための究極の手段であったと思う。
なるほどこっちの方向での美化のしかたもあるか。わたしは、「実はそんなに簡単に死にません。空気中から栄養が取れるからです」というマッチョな思想があるのではないかと考えたことがある。
この本では、今村仁司さんという方の考え方を引きつつガンジーの思想に迫っていく部分があるのですが、ここは興味深い記述でした。長いですが引用します。
<暴力についての理論的考察 より>
さしあたり私がここで想いおこすのは、今村仁司がいっている「第三項排除」という考え方である。今村がその著『暴力のオントロギー』で展開している暴力理論のことだ。
かれによると、人類史の前景を占めてきた暴力的現実についての理論的考察はほとんどなかったという。言語には言語学があり、労働に経済学があり、権力に政治学があり、理性に哲学があった。しかし暴力にはこれに匹敵する学問は存在しなかった。奇妙にも、「暴力の知」のみが理性的反省の圏内から「暴力的に」排除されていたのである。
個物が「そこに ── ある」ことは、無形の場所に暴力的な切断線を引くことだという。あらゆる存在とその生成には、「暴力的に切断線を引く」という原初の暴力が関与している。個物の生成は原初的暴力なしには不可能である。換言すれば、個物の生成は他の個物をも排除する。個物と個物の原初的な関係はこうした相互排除、相互敵関係にあるのであって、ここにはまだ秩序は存在しない。だが、そのような原初的場面において、その他者排除の作用を一つの方向に収斂させる、あるいは一つの個物に排除作用を集中するとき、多様な排除作用は一様化される。秩序が形成されるのが、そのときだ。
そしてこの秩序の発生のメカニズムは、原理上、ただ一つの個物が排除されるだけでよいのであって、これを今村は「第三項排除」と呼んでいる。排除された個物(個人)を排除された第三項といっているわけであるが、この被排除項が暴力を被った痕跡をぬぐい去ったとき、第三項の聖別化が生ずるのだ、という。
今村仁司のこのような第三項排除理論は、人と人との関係、人と自然との関係に内在する特異な「力」と、それによって生みだされる権力、儀礼、組織、秩序などの生成のメカニズムを説き明かすパラダイムとして考えられたものである。そしてそれは同時に、ガンディーの非暴力の本質とその生成のメカニズムを理解するうえでも、きわめて有効なものではないだろうか。なぜならガンディーは、第三項排除の加害と被害を、まるで絵に描いたようにその一身に刻印しているようにみえるからである。かれはたんなる「人間」であることをやめ、むしろ第三項排除の凝集点としてほとんど儀式的人間であるかのように振舞っているようにみえるからである。
これにはハッとしました。ガンジーは、もともと弁護士なんですよね。加害と被害の二元論になることがわかっていて、すかさず被害サイドにまわる儀式的人間になりえたこと。それが、対イギリスのみならず、インド国内でもそうであったという見かたをすると、もう偉人どころではない。
この部分は「秩序の発生のメカニズム」という視点でも興味深く、わたしはかねてより貨幣制度を「排除を乗り超える魔法のようなシステム」と考えていて、それがなかなか言語化できずにいました。暴力に対抗できる側面もあるからではないかと考えたら、いろいろスッキリしました。
この本ではその後
という章立てで続きます。
ガンジーはバガヴァッド・ギーターの2章を特に愛読していたと言われています。さすがに巧妙です。
ヨガの聖なる世界に溺れたくてしょうがなくなってしまう人は、「プレーマの場合」「マダリンの場合」の事例を読むと、少しクールダウンできるかもしれません。
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