そもそも人は接触を拠り所としてきたはずで、それをおいそれと別のOSをインストールするようにはいかない。若ければ若いほど、なおさらそうだ。そうだそうだ!
この本に収められている5つの物語は、精神的にも肉体的にも超濃厚接触ありきな時期を過ごしている人たちの日常で、そのうちのいくつかには「コロナ禍」が重なって、いずれにしても正直でナマナマしい。
『ストロングゼロ』と『コンスキエンティア』は、憂鬱を撒き散らす人に引っ張られてエネルギーを抜かれていく感覚があまりにもリアルだし、『デバッガー』は林芙美子の『晩菊』を現代版にしてめちゃくちゃ甘くしたみたいだなぁと序盤はうっとりしていたのに、美容技術が進化した今ならではの極端な方向へ突き進んでいく。
『アンソーシャルディスタンス』と『テクノブレイク』にある、除菌と行動にまつわる家族やパートナーとのいざこざは、20年後くらいに読み返したらきっと懐かしい気持ちになるはずで、濃厚接触ベースで生きている人たちの行為は読んでいるこちらが情緒不安定になりそうな勢い。
相手の存在に依存しすぎ。でもなんか楽しそう。いや苦しい。苦しいのだろうけれど、毎日がザーッと勢いで雑に流れていく感じが羨ましくもある。いや、でもやっぱりもう経験したくない。無理だ。どっちだ! そういう気持ちが行ったり来たりしました。
どの物語も精神的に近づきすぎの人間関係だけど、でも恋愛って、そういうものよね。
わたしはコロナ以前の社会生活習慣が身体的に思い出せなくなって、「これまで一体、なにをしてきたのだろう」と感じることがたまにあります。
自分が先に変わったのではなく世界や社会が変わった結果の変化なのに、自分が変わったのだと感じる。そういう瞬間のセルフ問答は、自分自身と共依存の関係になったかのよう。
『コンスキエンティア』という物語の中に、こんな心の描写がありました。
明日保健所や市役所に連絡してみようと思いながら、同時に私にも何かサポートが必要な気がして一体これはどういうサポート欲求なのだろうと不思議に思う。
一部を抜き出して「サポート欲求」と書けば健全そうに見えるけど、実際行政の助けを求めようとするときには、これは健全なサポート欲求だろうかと自責して自分のことは後回しになる。そういうものだ。自分の過去の経験を思い出して、懐かしい苦しみが蘇る。
この物語に登場する人たちのような激しい生活をしていなくても、みんな漠然と救われたい。選挙演説もそこへ訴えかけるトークが効くのがわかってて、どの候補者もそんな調子で話してる。
候補者たちが話している救うべき人たちのイメージに、この小説の登場人物たちは当てはまるだろうか。当てはまるのだとしたら、わたしも当てはまるだろうか。
どちらも当てはまる気がしない。そういう漠然とした行き場のなさにリアリティがあって、でもみんな、それぞれの方向でパワフル。まだ元気だと思われて救済の対象にはされないだろう。