わたしの人生にエピソードが少なくなった気がするのは、外でお酒を飲まなくなったからなのか、夜中まで出歩いたりしなくなったからなのか。
この本を読みながら、ふとそう思った。すぐにどんどん読み進めてしまう。読んでいると懐かしい感じがする。前半を読んでいるときは、漠然とそう思っていた。
ところが後半になると、これはもう一度読み直すやつだ・・・、と思うものが増えてきて、しかも心に残ったエッセイにはお酒が絡んでいない幼少期からアルバイト時代の話が多い。
あきらかにグレード・アップしている。もうこれ向田邦子級じゃないか。
『花火って途中で飽きるよね』『いま振り返っても、あの二年間は無駄だった』『僕たちには僕たちのルールがあった』は、胸がぎゅっとなる。
『世の中の死角のような場所で』は、わたしにもそういう “愛すべきちょっとダメな大人” とのワクチンのような出会いがあって、現在はその人の年齢を超えていて、自分は誰かのちょっとダメな大人になっている気がする。愛される人徳を備えていないところが、つまらない虚栄心の賜物でどうにも悲しい。
『あなたは勝ち組で、わたしは負け組です』は、自己憐憫について真正面から書かれていて読み応えがある。
『知り合いの誰もいない土地で』というエッセイは、最後の数行で自分の視点が変わって、東京からやってきた中年男性から自分の暮らしを哀れみの目で見られる若い女性側の気持ちで読み終えた。
こういう気持ちを書いてくれるのが、燃え殻さんの文章の最大の魅力だ。
── 15年くらい前に、こんなことがあった。
わたしは毎週日曜に都内のヨガ教室で12時開始のヨガクラスを担当していて、わたしのあとの枠を校長先生が担当していた。校長先生はナベツネ的な存在だったから、当日になって校長の枠をわたしが引き受けることもたまにあって、そういう日は何時間もそこに居た。ちっとも苦痛じゃなかった。校長はインストラクターたちをロサンゼルスへ連れて行ってくれるほど気前が良かった。
わたしが普段ほかの仕事をしていることを知っている人たちの中には、校長がわたしをこき使っていると同情の目を向ける人や、別の目で見る人がいた。
生徒として通う人のなかに「毎週いつもここにいるなぁ。次もやるのか。生活できてんのか。今度俺がうまいもんでも食わしてやろうか」と、救いの手の文脈で話しかけてくる人がいた。こういうことは、ヨガのインストラクターの仕事に限らず、まああることだ。
わたしはこういうとき、ほんとうのことを言わない。相手が傷つくことがわかっているから。
燃え殻さんがこう書いていた。
「そうでしたか……」
僕は落胆するように応えてしまう。自分が頭で思い描いていた、他人様(ひとさま)の窮屈な未来が、自分への過度な慰みだったということに気づいて恥ずかしくなった。
もうこれだけで、わたしのあの経験が成仏した。
この本は週刊誌の連載をまとめたものなのだけど、一冊を通して読むと、著者がたくさん恋をしてきたことがよくわかる。そりゃモテるだろうよと思う。
女性側の視点にすり寄ってこないところがいい。この誠実さはクセになる。
わたしの人生にエピソードが少なくなった気がするのは自分の感度が鈍ったからなのかと思っていたけれど、そうじゃない。いろんなことが起こっているし、それを覚えてもいる。
明確に思い出さないだけなのだった。