わたしは長くヨガブログを書いていますが、同時にヨガクラス開催も重ねており、そしてわたしはそのへんにいるOLでもあり。自分なりに社会と関わる方法・信条の落としどころのようなものを考え続けてきました。
この10年以上のあいだ、もちろん変化のなかには思うことがたくさんあって、その都度自分でハンドルを右に切るか左に切るか停車するか判断してきました。そんなあれこれの理由として自分の奥底にあるものが、年末年始のインド旅行を経てここ数ヶ月でゆっくり言葉として浮き上がってきました。
ヨガを楽しいと思って始めた人が、
周囲の冷笑によって、
ヨガを嫌いになることがないようにしたい。
ワークアウトにハマっているイタい人…
スピリチュアルなものにハマっているイタい人…などと
身近な人を冷笑する人のマインドまでつまびらかにしていきたい。
── きっと同根だから。
ヨガに限らずですが、なにかを楽しんでいる人に対して材料を見つけては熱量を下げようとする、そういう干渉をされたときに誰も悪者にしなくてもいい方法を探るヒントまでをも包含するのがヨガの魅力なので、そこまで知ってもらえたらいいのだけどな…と、そんなふうに思うことがずっと前からあったのです。
身近な人が楽しそうにしているときにその温度を下げようとする人の抱えている「さみしさ」に気づいたとき、それをあってはならないもの・ないものとして蹴散らすようなポジティブ風情の乱暴をはたらかないために、どうすればよいか。せっかく見つけた楽しいことを手放さなくてもいい方法ってないものかしらと、わたしは普段からよくそんなことを考えているということに気がつきました。
伝わりますでしょうか、この感じ。
これまで書いてきた以下のようなことは、すべてこの感じに通じています。2011年以降のものを10個ほどリストアップしてみました。
- 気持ちを脱ぎ捨てたり着替えたい人に、ヨガを。(2016年)
- いいことをしていると思うことのこわさ(2015年)
- 萎縮しないでほしいな、と思う(2015年)
- 「ヨガインストラクター」って、いいイメージなのか謎(2015年)
- よろめいても大丈夫、と思える生活のためにヨガをしている(2014年)
- おしゃれなヨガも、スポーツクラブも、いいんでないかい(2013年)
- そしてまたわたしたちは身体論へ逃げるのか(2012年)
- 高額な瞑想にハマっている友人を心配する人との話(2011年)
- ヨガのダークサイド(2011年)
いままで思いついたときになんとなく書いてきたこれらのことについて、自分の中では思いの粒子が7年前からあったのだけど、その関係性をこれまで言語化できずにいました。これらは静脈のような細い線でつながっていたために感じにくかったのですが、わたしは断罪マインドの発動要因が「さみしさ」であることを子どもの頃から知っていて、そのわかっているはずのものを具現化していく過程でヨガがたまたまエクササイズとして日常と両立しやすかった。長くさかのぼってみると、そういう経緯であったように思うのです。
このことに気づいたきっかけは、インドでいくつもの光景を連続して見た流れの中にありました。さまざまの宗教の祈りの場で、一様にウェルカムな態度で迎えられたことの連続からこのような思いが浮き上がってきました。ヒンドゥー寺院でもイスラーム・モスクでもジャイナ教の寺院でも一様に、「いま・ここ・この場。いらっしゃい!」という笑顔。
だって苦しいときには、生きていくには、祈りが必要だもんねと、町の人々がさまざまな信仰をもちながら結びついている。そんな日常的なワンネス感が、あのゴチャゴチャした街の各所で見られたのでした。ワンネスというフレーズはかつてのヨガ練習旅行で飽きるほど耳にしてきたし、そのころ流行ってもいたけれど、インドで日常を通じてすっと入ってくるのは初めてでした。
ヨーガの「特定の神(シンボライズされた神)を持たない信仰」という概念はすごく理解しにくいものですが、きっとこういうことなのだろうと思います。