うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自己防衛を謙遜でコーティングする雑な技巧にいいかげん自分でもうんざりしてる

わたしがここに書いたことをきっかけに、たまに友人と緊急反省会が始まることがあります。
「ちょっと昨日うちこちゃんがブログに書いてた話なんだけどっ!」と、友人が自分でもやめたいと思っている自己防衛について話してくれました。
その友人は外国で働き、ひとりで頑張っています。その奮闘ぶりを知っているだけに、打ち合うときは(撃ち合うのではない)ビーナス・ウィリアムズとセレーナ・ウィリアムズの試合のように、姉妹だからって「家でやればいいのに」というわけにはいかない感じでちゃんと打ち合います。
「ちゃんと」というのは、日本語講師であるその友人の日本語の精密さによって、わたしはいつもの調子でいても、結果がすごくちゃんとしたものになる。母国語コミュニケーションのラリー効果ってすごい…。

 


先日のトピックは「自己防衛」で、きっかけは以下の本の感想でした。

 

これを読んでグサッときたという友人の話を聞きながら、わたしたちは自己防衛を謙遜でコーティングする雑な技巧にいいかげん自分でもうんざりしていることに気がつきました。
次から次へと、あんなずるいわたし、こんなにずうずうしいわたし、いやこっちの角度から登場してこんな横切りかたをするあつかましいわたし…と、反省が止まらない。「まじめだからだよ~」「それも、人間らしさじゃない」なんて便利なフレーズで流さない。そんな話がしたいわけじゃないのだ。この会は寺で開催すべきなんじゃないの? という勢い。
脳内でこれまで「わたし程度の人間が」とか「これもひとつの学び」などの謙遜の文体で自己正当化してきたさまざまな逃げの感情の尻尾を追いかけるように拾い集める。もうこんなことはしたくないのだと。

 

上記のことを書いたときは別の友人(その人も外国で働き、ひとりで頑張っている)とのやりとりが元だったのですが、なんというか、わたしたちは反省会を求めてる。懺悔じゃなくて反省会を。なぐさめでも寄り添いでもなく「反省のラリー」を。

「そうやって自己防衛しながら、結局やらなかった」というのを可視化するのにじゅうぶんな年数を生きて中年になったからこそ、この自己防衛をやめたいともがいている。

わたしは40歳を過ぎた頃から、これまで以上に「ポジティブなネットワーク」への参加を優先するように心がけているのだけど、そうそう新たな場所へ行けるものでもない。だからこうして、既知の友人が自分を変えようとしている姿に光を見ます。あらたな友人を見つける機会が減っていくからこそ、なおさら一石二鳥な感じがする。

友人を鳥あつかいするものどうかと思いつつ。