うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

見ている人に負担をかけず安心感を与えてくれる、多くの人に好かれるその人が負担しているもの

好かれる人の存在を、わたしはこんなふうに分析している。
好かれる人は「見ている人に負担をかけず安心感を与えてくれる」そういう力を持った状態の人。
「負担をかけないこと」と「安心感を与えてくれること」は合わせ技で大きくなって、日々の積み重ねで増えていく。その状況があまりに神的なので、周囲は「この人なら大丈夫」とあたりまえのように寄りかかる。

 


 わたしはダメなときがあるけれど、あなたはいつも大丈夫

 


好かれる人は好かれるときに、きっとこんな勝手なメッセージを暗黙のうちに読みとって大丈夫を演じる。そして実のところあまりにも身勝手なその寄りかかりに困惑していても、情動を止滅してやり過ごす。それを見せると相手に負担をかけるから。大丈夫って、なんだろう。便利すぎて実体が見えない。


わたしは「いい人」という言葉を使う人を警戒することが多いのだけど、それはいつもその言葉の前に透明の文字で(私にとって都合の)というカッコが含まれていることを気にしていないばかりか他者とそのフレーズを共有することによって(みんなにとって都合の)いい人を創り出そうとする先導者のおそろしさを見るから。


すてきと思っていた人がある日突然その場を去っていくとき、あとからたどって見えるのはこんな道筋だったりする。ごめんなさいと思っても手遅れ。うわぁこんなに散らかされた道をあの人は軽快な足取りで歩いていたのかと気づいたとき、もうその人は別の道を歩き始めてる。

だからなんでもかんでも美談になんてできない。他人の道を散らかしたことを恥じる気持ちを発動させ、自己を顧みる。そういうことから逃げない自分であるためには、どうすればよいのだろう。インドでさまざまなものごとを見て、こんなことを考えて帰ってきました。