うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分を粗末にしている感じ(「すべて真夜中の恋人たち」読書会より)


ここで何度もこの本の感想を書いているせいか、たまに「すべて真夜中の恋人たち」を読んでみたという人のつぶやきを耳にする機会が増えています。
そのなかに『この冬子さん、わたしだと思うところが多くて…。「コンビニ人間」を読んだときもそうだったのですが』とおっしゃっている人がいて、なぬ! と思い、そんな経緯でわたしも「コンビニ人間」を読みました。社会や職業や状況への適応のなかで起こる麻痺や合理化の過程を描いているという点で、なるほど…と思いました。

「すべて真夜中の恋人たち」の10章に、主人公が少しバランスをくずしていく過程でのこんな内面描写があります。

どうでもいいわたしがどうでもいいものを食べつづけて、さらにどうでもよくなっていく感じだった。

ここを読んで「これ、わかる…」と思ったという人が、以前読書会でこんな話をしてくれました。


 残業中に席でお菓子を食べて、夜中に帰ってからまた、おなかもすいていないのになにかを食べて…
 というふうになっていたときのことを思い出しました。自分を粗末にしている感じ。


自分を粗末にしている感じ。というのはズシンときます。
誰にも迷惑をかけていないけど、みずみずしくないものを食べるときに感じるなにか。でも人と一緒だとあまり感じなかったり。こういうのは、「わびしさ」というのかな。存在してもしなくてもいいような、 "どうでもいいわたし" という気持ちって、どうして起こるのだろう。


なんてことをそのときは思っていたのですが、「コンビニ人間」の主人公の古倉さんは、その段階をさらっと超えていました。

 朝、こうしてコンビニのパンを食べて、昼ごはんは休憩中にコンビニのおにぎりとファーストフードを食べ、夜も、疲れているときはそのまま店のものを買って帰ることが多い。2リットルのペットボトルの水は、働いている間に半分ほど飲み終え、そのままエコバッグに入れて持ち帰り、夜までそれを飲んで過ごす。私の身体の殆どが、このコンビニの食材でできているのだと思うと、自分が、雑貨の棚やコーヒーマシーンと同じ、この店の一部であるかのように感じられる。

もうこれは信仰というか、神と一体化しようとするかのよう。


コンビニ人間を読むきっかけをくれた人に『「すべて真夜中の〜」の冬子さんには共感するのだけど、コンビニの古倉さんは、ちょっと怖い』という話をしたら『わかります。冬子さんには、まだちょっと後ろめたさがありますもんね…』と言われて、そうか、この境界を感じながらもどうしていいかわからないまま日々が過ぎていく苦しさと、それを一瞬でも忘れさせてくれるものがわたしたちの接点にあるのかも。そんなことを思いました。

わたし自身、なにかを麻痺させることで乗り切ろうとしてきたことが過去にたくさんあって、自分では「過適応」と呼んでいるのだけど、それは「自分を粗末にしている」ということだったのだろうか。でも「もっと自分を大切にしたほうがいいよ」といわれるときって、利用できるだけ利用したあとに利用した人が言う言葉って気もする。
「熱中=いいこと」という言葉のイメージって、いつから起こったのだろう。これからどう変わるのだろう。わたしの記憶でいえば水谷豊がヤングな頃の全盛期にはすでにそうで、それ以前には労働者がヒロポンという興奮剤を飲みながら仕事をしていた時代もあるらしい。お風呂に入って「あ〜、極楽極楽」ではすまなくなる境界は、どこからはじまるのだろう。
「熱中=いいこと」というはなかなかすごい信仰の下支え。なんというか、うまい落としどころを見つけたものだね、という気がする。ギーターでいう「専心」と混同しそう。