うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「◯◯に越したことはない」という便利なフレーズは捨てがたい。ということに気づくこと

先日、はじめてバガヴァッド・ギーターの読書会を開催した地方で、みなさんとざっくばらんにお話しする中でウンウンと深くうなることがありました。
バガヴァッド・ギーターの世界では「やらないよりはやったほうがいい」「参加することに意義がある」というような、ざっくりとしたポジティブさは斬られてしまいます。お布施をした=いいことをしましたね☆ ではないし、しんどい練習をした=がんばったね! でもない。「それ、純粋な気持ちでやった?」と問われる。このような純性や聖性とワンセットになった正しさは、日本人にはめんどうくさく感じられる。それに気づいているかたがいらっしゃいました。



 白黒はっきり、のほうがいいです。
 3(純性・激性・鈍性)になるのとか、めんどくさいです。



ナイス吐露! ここ、すごくだいじなんですよね。この気持ちをなかったことにしないスタンスは、日本人として率直だなと思うんです。わたしにはその率直さが輝いて見えました。だって同時代を生きているほとんどの人は「白黒はっきり=いさぎよい。かっこいい」という教育・道徳観でここまできていると思うのです。なのではじめはバガヴァッド・ギーターの世界がめんどうに見える。
わたしは「水戸黄門」や「花咲かじいさん」を子どもの頃から "きつい話" と思っていたのでもともと勧善懲悪トーンが苦手ではありつつ、その思いを言語化できずにいました。そんなわたしでも、大人になってはじめてギーターの世界に触れ、クリシュナからスピリチュアルなフレーズ満載で鼓舞されるとそれはそれで「なんかこの神様、ブラック企業の社長っぽいなぁ〜」とか「カルト教団の教祖のトークシナリオの元ネタって、これじゃないの?」と思ったものです。バガヴァッド・ギーターに対しては、わたしはそんな段階を踏みました


バガヴァッド・ギーターのような神の世界観をまっすぐにいきなり「すばらしい!」となるのはそれはそれで、むしろあぶないかもしれない。だって、人間が書いた物語です。わたしはそこを忘れて陶酔することはなくて、わかったうえで陶酔しています。ジャッキー・チェンが生まれつきあんな挙動をする人だと思って映画を見ていたわけではなく、練習の量まで想像しながら「すごーーーい」といって楽しむ。そしてあこがれて陶酔する。真似もする。というのと同じです。
その前提があったうえでなお「人は自分の都合のよいように解釈をする」というバリエーションを見ていくなかで、自己と出会う。そのために読み続けています。生きている限りはずっと、多少なりとも自分の都合を発動し続けていることを、自分は聖人ではないという前提で自覚する。



その日の読書会のあとの雑談では「健康情報に飛びつく人たち」や「世の中にセラピーが多すぎませんか」などのトピックもあがったのですが、これも「白黒はっきり、こっちがいい」を求める人へのアプローチ。マーケティングが当たっているという状態です。
わたしは「◯◯に越したことはない」という物言いや書きかたをここ数年注意深く避けているのですが、意識して避けなければいけないと思うほど、頭の中の候補にあがる便利なフレーズです。
日々の中でふと「で、みんなはどうなん?」「わたし、多数サイドから漏れてない?」と不安になるのは、この社会ではごくごく平均的な呼吸反応。それが多数サイド。わたしたちの日常的な思考にはそもそも「◯◯に越したことはない」の前の文章が抜けているのです。



 損をしないためには「◯◯をするに越したことはない」

 失敗をしないためには「◯◯を準備しておくに越したことはない」

 咎められないためには「◯◯を勉強しておくに越したことはない」



「越したことはない」の末尾から紐解くならば、その前の文章はだいたいこんな感じではないかと思います。前の文章を「成功するためには」に変えたら、「◯◯をするべきだ」になるから。わたしはバガヴァッド・ギーターのなかにあるのはそのような教えと読んでいます。
セラピーに解剖学にビジネス講座、世のなか魅力的な講座はいろいろあるけれど、養成講座を開催する人たちは大なり小なり「ヨガ講師をしているのだから、講座を受講するに越したことはない」という思考まで読んで告知文を作成しています。それが日本式コミュニケーションのテンプレート。そうじゃないとなんか気持ち悪いという様式美のようなもの。刺身にワサビがないと食べようと思えないとか、おでんにカラシがないと残念に感じるとか、そういうのと同じだと思っています。
わたしは



 白黒はっきり、のほうがいい。3(純性・激性・鈍性)になるのとか、めんどくさい。



という率直な自己認識をスルーしないスタンスはとても純粋と感じます。これまでの常習と照らし合わせて物足りなさがあることを認識している。足るを知るっていうけれど「刺身にワサビがない」「おでんにカラシがない」の感覚は、それとはちょっと別ですよね。足るを知るっていうのは「刺身がなくてもいい」「おでんがなくてもいい」ということ。
わたしはこれまでに、ヨガが好きであるというアイデンティティを確立したくてしたくてしたくてしたくて「刺身にワサビがついてないじゃないの! キーッ」となっていく人を何人も見てきました。
なので、今回のような発言を聞くことができて、とてもうれしくなりました。「刺身にワサビがついてないじゃないの! キーッ」は、この発言(白黒はっきりなら、らくなのに…)ができない葛藤から起こる。そう感じていたのです。人は変化を求めもするけれど、変化を嫌う。この気持ちに気づいているというのはたいへん冷静で、かっこいいなぁと思ったのでした。わたしもあらためて考えを整理することができました。




むずかしく考えなくても、矛盾を抱えていても、だいじょうぶ。二頭身なのにチョビヒゲでダンディな軍人かつスキーの先生、という抱えきれないほどの状態をラブリーに実現する人もこの世には存在するのだから。