このあいだ、まったく別の仕事をしているけれどたまに夕食を共にするOLさんと「働き方改革だライフ・ワーク・バランスだと言っても、DNAのように埋め込まれている "あの謎のチップ" を自分で突き止めない限りはどうにもなりそうもない」という話をしました。
前日に同じものを食べ翌朝に体調を崩したので「あの日わたしたち、どんな食べかた・飲みかたしたっけ?」という振り返りからこんな話になったのでした。
わたしは普段通りに仕事へ向かうことができる程度でしたが、すこし無理をしました。もうひとりのOLさんは体調を崩して会社へ遅刻すると連絡したそうです。そのときに感じたことを聞きながら、わたしも同じだな…と思いました。別に自分ひとり抜けたところで大したことないのは重々承知。そんなこと痛いほどわかっている。痛いほど。だからこそ起こるのかもしれない、よくわからない葛藤。自分は重要人物ではないと内心思っているからこそ感じるのかもしれない、あの罪悪感。
そのときに、こんな話をしました。
(仮にそのかたのお名前をN子さんとします)
うちこ:あれは厳密には、ザイアクカンというよりはザイショウカンなのだけど…
えぬこ:ザイショウカン?
うちこ:うん、罪悪感ではなくて、罪障感。あるべきバランスを汚したとか濁した、みたいに感じる
えぬこ:そう…。別にわたしひとりいなくても回る
うちこ:なんか通常あるべき和を汚したと感じる。責められるほど悪いことはしていないのは、理論上ではわかってるんだけど
これはわたしの心の感覚ですが、朝は善悪よりも清濁に価値観が寄っていて、怠惰になると自分が汚れていると感じやすいです。その日わたしは5年ぶりくらいに二日酔いのような頭痛を感じ、理由が食事とお酒だったこともあり「罪悪感」に加えて「罪障感」に近い感覚がわいたのでした。いまは週に一度も飲まない日もあるくらい飲まなくなっているので、より強くそう感じます。
そこまで罪悪感を抱かなくていいってわかっているのに感じる罪悪感
自分の多少の不具合が尊重されていいものだって、頭ではわかるんです。わかるんですけど。朝はそういう気持ちになる。自己と向き合うときに大きく立ちはだかるコレを、どうしたものか。
こういう考えをいちいちつかまえるのはしんどいので適当に流しながら暮らしてはいるけれど、それでもこんなふうにふと一緒に立ち止まってくれる仲間がいてくれるのはありがたいことです。わたしたちは夜に新橋の繁華街を歩きながら、こんなふうに昭和風情でビジネスマンがガス抜きできる場所がなくなったら、かえって治安が悪くなりそうだよね、なんて話もするのです。それなのに、自分たちときたら、そうはいかない。
あるべき秩序を乱した
この感覚は、冷静に考えるととてもおこがましいし傲慢だけれど、尊いものでもある。
自分をコントロールするのは自分だという意思や責任意識があるというのは、きっと尊いこと。だからわたしはこの感覚から逃げないようにしています。
存在しているだけでいいと思えないのは自己肯定感が低いとか、世の中そんなふうに考える流派(?)もあるようだけど、他人からいつもどおりに認識してもらえることで自分が肯定されていると感じる瞬間というのも確実にある。だいたいのことはこのように一筋縄ではいかないけれど、でもそういう一筋縄ではいかなさを共有できる仲間がいるというのは、生きていくうえで励みになるものです。
<ヨーガのおまけ>
わたしが今日書いた「ざいしょうかん」を想起するきっかけになった心のはたらきは、サンスクリット語のアカルマサ / アカルマーサ(akalmasa)。
英語だとspotless(しみのない)とか、unstained(汚点のない)というようなニュアンス。バガヴァッド・ギーターの6章27節に出てきます。
実に、意が静まり、激質(ラジャス)が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最高の幸福が訪れる。
(「バガヴァッド・ギーター」上村勝彦 訳)
過失や汚点のない状態でいたい気持ちを静めるのって、すごくむずかしいんですよね。そして自分の汚点を自分で蒸し返すのもラジャス。この潔癖症に似た感情を、どうしたものかね。
(おまけのお知らせ)
今年最後のバガヴァッド・ギーター読書会を12月に関西でやります。ヨーガの教えをむずかしくしすぎずに、同時代を生きるみなさんと思いを共有したい。そういう時間です。