うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

過去の自分の文章に「リスクヘッジ」や「誇大妄想」を見つけたときに思うこと

なにかに縛られて苦しそうな人を見るとき、なにか言葉をかけたいと思うけれども、言葉が出てこないことのほうが多い。
こういう瞬間は、自分の過去の文章を読みながらそこに「リスクヘッジ」や「誇大妄想」を見つける瞬間とよく似ている。
そのときの自分にとって存在が大きくなっていた何者かに対しての配慮があることは読み取れるのだけど、もはや思い出せない。思い出せないけど「そういう感じがあったことは、なんかわかる」という感覚。
こういう感覚は、いちど自分の考えを人目にさらしてみないとわからない。



過去の日記を見て恥ずかしくなるのは、「誇大妄想」を見つけたとき。
さらにその次の段階もある。「誇大妄想」の奥にある自我を見抜いて攻撃する自分がいる。そんな自分に対して「自尊心があちこちから出すぎてもはや意味のわからない文章になってるのに、それでも出すんだ。へー」と、さらに冷笑的な問いを投げる自分もいる。謙遜しすぎていて気持ちの悪い敬語や文章を書いているのがまさに自分であるという事態だけでもダメージがあるのに、それでも出したいという自我の存在にすらつっこみを入れずにはいられない。
わたしは、これを乗り越える人が好き。ここも踏まえて、すこし攻めている人の文章が好きです。


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少し前に、知人から「寄りかかってくる人を引き寄せてしまっている気がする」という相談を受けました。よくある話であり、わたしも以前は複雑な感情を抱いたときに、信頼する人に客観的な視点を求めたりしたことがありました。とはいえ、わたしがそれを相談として伝える時点でバイアスがかかります。それ以前に、人選の時点で味方を選ぼうとしてます。なので結局のところ客観ではない。自分はさみしいのだということに気がつくまでに、ずいぶん時間がかかりました。



これは数年の経験を経てのわたしの観かたですが、寄りかかってくる人は、相手のなかにある「リスクヘッジをしようとする自尊心」への嗅覚をはたらかせています。日々の飢えによって研ぎ澄まされた動物的嗅覚かもしれません。その感覚を引っ込めることをやめてしまっている状態。そこへ、寄りかかられる側のサービス精神(=さみしさでもある)が発動してマッチングが起こり、泥沼にはまります。



誰だって、さみしいときはある。
でも


 お客さん:ごはんおかわり、あるかな?

 女将さん:あらー。さっき終わっちゃって、もうお釜が空っぽなのよ〜

 お客さん:おっけーおっけー。そもそも、食べすぎなんだよね。はは


と、大人同士ならこういう形で信頼関係を重ねていくのがのぞましい。
女将さんは、おかわりがないことでゴネられたら…、なんてことは心配しなくていい。
だいじょうぶ、そこまで空腹なら帰りにコンビニでなんか買って食べる。



こんなふうに考えられるようになったのは、つい最近のことです。
過剰なリスクヘッジや誇大妄想は、自分がさみしいときに起こります。自分を削ってまで使える人と思われたいという感情に負けたときに起こります。だからできるだけ、自分で自分を好ましくないと思わない状態でありたい。
わたしはヨガ・ニードラという瞑想の練習の時に「サンカルパ」を意志をまとめる行為と説明したりしますが、こういうことでもあるととらえています。大切ではない、ただのリスクヘッジでしかない願いをそぎ落とし、大切な願いを掘り当てること。
これはいっきにガバッとできるものではなくて、とても時間がかかるけど、あのプロセスは "必ずあると信じて探し続けること" の意義を説いているのだと思っています。