うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

妄想  森鴎外 著

森鴎外が49歳の時に残した文章で、老人がこれまでの信念・心の葛藤を振り返り語る体裁。執着があるまま生きているよ、そしてこんな感じで死んでいくこともわかってるよ、ということが書かれています。
タイトルの『妄想』は錯乱のような意味での妄想ではなく文字通りのdelusion。自分はこう考えてこう信じてきたのだけど、それも価値のないことなのだろう、でも諦観もできなくて……という煩悶。読んでいるだけで浄化されていくような気がするほど、その葛藤スタンスに心を打たれます。


自分の意識はゲーテの言うようにはなっていないと語る、以下の部分の正直さったら!

 日の要求に応じて能事畢(のうじをは)るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。

主人公の翁は、もし自分が哲学や芸術で大きな作品を生み出すような境地に立っていたら、現在に満足できていたのではないかと考えています。そういう、”大したことができなかった自分” を抱えながら、こんなことを語ります。

 少壮時代に心の田地に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。  

説法でも演説でもなく、吐露。年老いてもこういう感情は無くならない、その温度が淡々とした文章に包まれているところにムズムズする。スイッチを消してしばらく経った後のコタツのような、諦念のやわらかみが独特。

 

わたしは森鴎外の書いた『大塩平八郎』を読んだときに、史実を美化して盛らないスタンスに信頼感を抱いてほかの作品も読みはじめたのですが、森鴎外インパクトのある言葉や勢いに乗っかることへの抑制について強い意識を持っていたのかもしれません。
ニーチェの超人哲学を以下のように語っている部分で、特にそう感じました。

併しこれも自分を養つてくれる食餌ではなくて、自分を酔はせる酒であつた。

もし自分が同時代にこの文章を読んでいたら、「俺、わかってんだぜ」とインテリっぷりをひけらかすように見えて鼻についたかもしれないけれど、昭和生まれのわたしはそれを感じない。


社会の中で求められた任務を果たしてきた人が、こんなにも実直に自分の内面の言葉を書き残しているなんてと、いまでは見られない偉人のスタンスに心を打たれます。名文的な一行がいくつもあって、こりゃ未来永劫尊敬されるわなと思いました。
名コピーライターから金の匂いと色気を完全に消した感じといったらわかるかしら。