数年前に、友人と話すときに「さみしい」という表現を自然に使いはじめた時期があって、「それは、"さみしい" なの?」と言われました。
これに関して、どうも日本語の選び方がズレているんだろうなと前から思っていたのだけど、先日読んだ以下の本に、そうそう! その感じ! と思うことが書かれていました。
さみしい
頭の中でジャッジすることがない状態って、「さみしい」んです。
で、それはカウンセリングを行うような場面では、一段階よい方向に進んだ状態なのだそう。
頭の中でジャッジの標的を自分自身に向けて、その存在がうるさい状態が、いわゆる心を病んでしまっている状態で、その頭の中の声が止んでくると「さみしい」と感じるのだそう。
病むほどでなくても、世間や社会や他人をジャッジしていれば頭の中には思いの言葉があって、さわがしい。
わたしの言う「さみしいんだよね」がよくわからないと言われたのは、たぶん以下の微妙な差が、個人によって違ったからだと思います。
- 寂しいは、頭の中が静寂で、何かで埋まった状態に慣れていると空虚感がある。
- 淋しいは、孤立感や疎外感を伴っている感じ。
わたしは前者のときに「さみしいんだよね」と言うので、「(話の流れ的に)全然さみしそうに聞こえないのだが」となっていたのだなと。
急いで何かでその空白を埋めようとしなくてもいいと思っている、「さみしい」。
空白を空白で埋めていたな・・・という感覚の、「さみしい」。
空白を空白で埋めていたな・・・という感覚の「さみしい」には、安らぎも含まれています。
なので、眉根や口角がへの字になった「さみしい」ではないんですよね・・・。口角は上がってる。
この、安らぎを含む「さみしい」は瞑想の状態で感じられるものでもあるので、人と一緒に身体を動かす練習をした後に瞑想をすることの意義も、こういうところにあるんですよね。