言い間違い、記憶間違いをそのまま出してしまうと凹みます。
すべてを正確に覚えておけるわけではないのはわかっていながら、注意力の低下を感じると凹みます。
他人を巻き込んでしまった際には、なおのこと。
他人を巻き込まなくても凹みます。
最近よく間違えるのが「ChatGPT」を「GTP」と書いてしまう誤記。
こういうことが増えてくると、自分よりも年配でありながら間違いの少ない人への尊敬度が上がります。
そして、かつてこの種の間違いにイラっとした自分の性質も、そりゃそんなに注意力の在庫があればイラつきもしたよねと、そのような視点で見ます。
・・・あ。
いままさに、わたし、中年だ。
この感じを味わいます。
脳内ヤングのわたしが、リアル中年のわたしを嘲笑う。それを見ている。
「あの人、ただChatGPTって言いたいだけじゃん。しかも間違えてるしw」と、笑うのも笑われるのも、その思考の行為者はわたし。
笑う側のこの脳内ヤングは、いつかわたしの中から居なくなるのだろうか。
それとも、ヤングの設定がスライドしていくの?
わたしの今の感覚では、居なくなるのではなくスライドしています。
15歳くらい若いわたしが、いまのわたしを嘲笑う。
20年前の自分は、もうわたしの中に住んでいる感じがしません。むしろ「おばさん、頑張ってきたじゃーん」と褒めてくれそうなくらい乖離しています。
15年前のわたしは、いまのわたしが声をかけようにも言葉に困るほど荷物を抱えて詰んでいて、それでも強く生きていて、よく生きたな。だから今もわたしは生きているのだと思う。あなたにならどんなに嘲笑されてもいいよと感じます。
みなさんの感覚はどうですか?
わたしは嘲笑や冷笑の視点のありように対して、これはものすごく注意深くあらなければならないものだと、ヨガを繰り返し学ぶことで、それを意識する度合いが変わりました。
その視点の向く先が他人であっても自分であっても、その視点の存在自体に意識を向けさせる教えや格言が多いのがヨガの特性だなと、論語や日本の道徳の教科書の教えと比較して思います。
わたしと似たことに着目している同世代のヨガ仲間って、どのくらいいるだろう。
こういうことを考えるようになった流れを、わたしはまだ一連の話としてまとめることができません。断片はたくさんあるのだけど。
これは中年期の精神の充実なのか。耕作の時期に取り組んでいることへの結果は、収穫の時にならないとわかりません。
15歳くらい若いわたしを見るいまのわたしの視点が、この先も更新されていくのか、まだ知らない感覚が加わるのか。捨てていくものもあるのか。
みなさんはどうですか。
今日もここまで読んでくださり、ありがとうございます。
同時代に一緒に年齢を重ねることを楽しみましょう。