うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

死してなお踊れ 一遍上人伝 栗原康 著


夏目漱石の「坊っちゃん」のなかに、"菜めし" と "〜なもし(方言)" をかけた、ダジャレのラップのような、そんな印象的なセリフがあります。明治時代の小説なのに、読んでいると "Hey Yo" って感じになってくる。

わたしはこの一遍の伝記「死してなお踊れ」に、そんな松山ラップ調の文体に通じるものを感じます。
伝記なので一遍の生まれから修行時代から遊行まで、おもに絵伝によって紐解かれる歴史が語られているのですが、一遍は道後温泉出身なんですよね…。(参考:昨年行った「宝厳寺」/一遍の生誕地)

それにしても松山というのは、なにか不思議な明るさからくるリズムというか、なんかあるんでしょうね。自然のエネルギーに従順な明るさというか。温泉がわいてるだけとは思えない。
この本は本文の文体が独特ですが、詩(句)の訳とともに展開する部分の文章がすごくよいです。ほんとうに一遍が自身の思いを話しているかのよう。

 三月の末のこと、空をみあげると、紫雲がたなびいていた。群集がざわめきたつ。これはよいしらせだろうか、それともわるいしらせだろうか。だれかが一遍にたずねてみると、こういったという。


 花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍知らず


 しらねえよということだ。ちょっとかんちがいして、一遍を生き仏みたいにあつかって、参詣しにくるやつらもいたくらいだから、それはちがうぞ、オレには霊能力も超能力もありゃしない、ただの人間なんだ、合理的にものを考えてうごいているだけなんだとくぎをさしたのだろう。
(国土じゃねえよ、浄土だよ より)

そこに因果を求める、因果があることにしたいという虚構を求める気持ちが人々のなかにあるってことを、痛いほど何度も見てきていたのだろうなぁ。と思う。


一遍の生涯の終盤での以下の部分も、同じようによいです。 

 八月一○日、一遍は時衆にむかってこういった。「念仏勧進はオレの一生涯だけのものだ」。オレの跡をつぐとかいって、教団なんかつくるなよといっているのである。どうしても一遍がやっていたただしいことを継続しましょうといいはじめると、そこに秩序がうまれてしまう。ただしさの強制というのだろうか、善意をよそおって、ひとがひとを支配してしまうのだ。
(いくぜ極楽、虫けら上等 泣いて、泣いて、泣いて、虫けらになりてえ より)

仏陀も仏像とかやめてねといってもああなるし、時宗時宗になるのだけど、その支配構造を求める気持ちはあなたの中にあるのだよということを、わかってほしくてもわかってもらえない。一遍にもこういうエピソードがあるんですね。


一遍の思想をあらわす以下の部分は、リズムもトーンも力強い。

成仏、成仏、成仏だ。ひとりひとりがそういうことをやっている。みんなで念仏をうたうということは、けっしてひとつになるということじゃない。ひとりひとりが、まったく別の自分にうまれかわっていく。それが「ひとりはおなじひとりなりけり」ということだ。うたえ、念仏。なむあみだぶつ。一丸となって、バラバラに生きろ。
(一丸となって、バラバラに生きろ より)

「もっていかれる文体」のほうが「正しい文体」よりも、もっていかれるよね。ということそのものが一遍の思想を表しているかのようで、やっぱり「どれどれ、救ってしんぜましょう」じゃなくて「いくぜ浄土おぉぉぉー」なんですよね。

わたしは2年前にここで「救われなかったら、どうなっていたの」というのを書いたことがあるのだけど、その背景にはやっぱり一遍がいる。
それにしても、平安時代末期からの仏教は当時の社会情勢(というか税制かな)と重ね合わせてみると、とにかく濃い。


この本の「あとがき」ではわたしよりもうんと若いこの著者の思いがしっかり語られていて、そこには雨宮まみさんへの追悼と思われる引用がさりげなく含まれていたりして、「楽しみたいよね、この世界」という気持ちになりました。


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