うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

歎異抄 梅原猛 校注・現代語訳(各条部)

まえに「解説部」の感想を先に書いた、梅原先生バージョンの歎異抄
この本はものすごく行き届いた構成なのだけど、「こころ」というところに梅原氏の「俺はこの条をこう読んだね」というアツい想いが記されていて、そこが読みどころ。
空海の思想について」でも感じましたが、梅原氏の解説は「完全に本人になりきる」くらいの入り込み方がいい。
歎異抄については、その解釈を語ろうとすると、その人の考える「美学」や「にくきもの」の定義があらわになるように思います。リトマス試験紙みたいな書なんですよね。
今回はこの本にある各条へのコメント「こころ」の箇所から引用紹介します。

■第二条
 はるばる東国から訪ねてくれた門弟や信者を前にして、親鸞の言葉はそっけない。彼は、念仏以外に往生の道を知らないといい、そしてまた、念仏が浄土に生まれる原因になるか、地獄におちる原因になるか知らないという。論者は、この言葉の中に、日蓮の念仏弾劾の言葉に対する親鸞らしい対処の仕方があるという。


(中略)


自分のような者は地獄におちるより仕方がないので、たとえ法然聖人にだまされて地獄におちても何の後悔もないというのである。

「たとえ法然聖人にだまされて地獄におちても何の後悔もない」という部分を古文で読むと、現代人で古文の授業をまじめにやってこなかったわたしには異様な印象(グル最高! というような)だったりするのだけど、何度か読むうちにこういう雰囲気が伝わってくる。そこに、日蓮についての説明があって、また頭の中の景色が変わった。

■第五条
 私は、この文には、この世でひたすら他力をたのみ、念仏すればよいという点に力点があると思う。おまえは父母を救済するほどりっぱな人間であるか、おまえが救われたら自然に父母が救われるのではないかと親鸞はいっているのではないかと思う。

ここには、なんだか気持ちをえぐられた。いっぽうで、「りっぱじゃないから、せめてやれることをする」という気持ちにもなれる。

■第六条
 終わりの一句は特に印象的である。ここに親鸞が晩年に達した自然法爾の立場があろう。こせこせ人を弄するな、何ごとも自然にまかせるがよい、他力のままにしておけ、そうしたらいつかはすべてがわかるときが来るというのである。

わたしは六条が好きで、特にこの部分が印象に残ります。
この本の現代訳部分も紹介します。

師弟の間といえども、前世からの因縁によって定まっている運命、つくべき運命があれば弟子は師につき、離れるべき運命にあれば弟子は師から離れるものでありますのに、師にそむいて別の人について念仏をしたら極楽往生することができないなどというのは、どうにも理解できないことであります。
もともと信心は阿弥陀さまから賜わったはずなのに、師は、弟子が阿弥陀さまから賜わった信心を、あたかも自分のものであるかのように自分のもとへ取り返そうと思って、そんなことをいうのでしょうか。とんでもない話で、決してあってはならないことであります。

弟子が師に執着して破門されるとか、そういう場面でも同じことなんですね。もともと教えは古の人々らから賜わったはずなのに、弟子が、師から得たと思うところから歯車が狂う。

■第十二条
親鸞は不思議な言葉を語る人であった。経典には、正しい法を信ずる人もあり、そしる人もあるというが、そしる人があるので、私は、私の信ずる念仏を正しいと思う。もしもそしる人がいなかったら、かえってわが念仏は正しい法ではないと疑わしいのではないかと親鸞はいった。
 こういう言葉を聞くと、私はつくづく親鸞という人は不思議な人であると思う。私は、自分の仕事がうまくいき、私のまわりに多くの賛同者を見出すとき、「俺はたくみなにせ金づくりではないか」というニーチェの言葉を思い出すことにしている。親鸞の言葉もニーチェの言葉も、そんなに違いはない。彼は誹謗と中傷の中で、かえって彼の教えの真理を確信する。すべての真理を認識した人たちは、いつも自己の周囲に北極を持つことを好むのである。唯円のいいたいのは、中傷には中傷、憎悪には憎悪をもってこたえるなということであろう。中傷に対しては愛、憎悪に対しては確固不動の信仰でもってこたえよというのであろう。

「誹謗と中傷の中で、かえって彼の教えの真理を確信する」という点は、ほかの条を読んでもそう感じる箇所が多い。

■第十五条
信仰の定まるときを強調した親鸞は、逆に死の瞬間を軽く見る。死後に仏になることはすでに定められた予定のコースである。それは、蕾が必ず開き、菩薩が必ず如来になるようなものである。つまり、ここで浄土教が価値転換するのである。死後の世界に救済の重点を置いていた浄土思想が、生の世界に重点を置くようになったのである。ここに親鸞の思想の現実的性格があり、また浄土真宗のたくましい実践の力があったのである。


(中略)


 かつて空海は、そして親鸞以降日蓮は、そのような現世成仏の救いを強調した。しかしそれは違うと唯円はいう。浄土教は、浄土教である限り、人間性の自覚を捨てることはできない。この世においてわれらはいかに仏の光に包まれようとも、われらはあくまで有限にして罪深い身であり、悟りを開くのは死後、極楽浄土においてだと、唯円ははっきりいい放つのである。

ここの唯円の強さは好きです。「浄土教は、浄土教である限り、人間性の自覚を捨てることはできない」という軸をぶらさなかった唯円唯円日蓮は、同じ歳なんですよ。そういう背景も想像しながら、地味かっこいい僧 No.1 に唯円をおしたい。

■後序
 親鸞はいう。阿弥陀仏が長い間苦悩して衆生救済の願を立てたのも、親鸞一人のためであると。驚くべき言葉である。阿弥陀仏はあらゆる衆生を救うために修行したのであり、決して親鸞一人を救うためではあるまい。この言葉は、広大無辺な阿弥陀仏の慈悲を私物化しようとするエゴイズムの言葉であるかのようである。しかし、この言葉を理解できない人は宗教を語る資格はないと私は思う。

深い言い切りです。はからうことの理解にはからっているうちは、そのブーメランが自分に戻ってくる。戻ってくるところまで理解できれば、この親鸞の言葉がエゴイズムの言葉ではないことがわかる。ということなのだとわたしは解釈したのだけど、このコメントだけ読んで理解しようとしないで、親鸞の教えから学んでね。


歎異抄に触れて以来、鎌倉時代の歴史を学ぶのが楽しくなりました。
たまに友達と話していると「うちこ、その時代にいた?」と笑われるのだけど、そうなっちゃうんですよね。だってみんなブッダの教えの解釈の、時代時代のバリエーションなんだもの。そのバリエーションの構造は、時代にまるごと身を投げていくような入り込み方になったとたんに、学ぶのが楽しくなる。
梅原先生の解説は、そういう「どっぷりな楽しさ」と「圧倒的な調査背景」のブレンドが妙味。五木氏や吉本氏の「親鸞、偉大っす」な感じとはまたちょっと違うスタンスで、その押し引き加減がいいのと、やっぱり空海さんのことが好きな人が書く歎異抄解説はまたちょっと風味が違うんですね。
どのおじさまも爆発的に素敵ですが。

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