うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ゴンドラ(1986年の映画)


友人が「観にいけるならぜひ」と言うので行ってきました。30年前の映画のリバイバル上映
もう頭蓋骨の中身ぜんぶの通路が痛い…というくらい、いろいろな記憶が自分の中からわきあがり、つらいけどやさしい夢を2時間見続けたような疲労感。
「なつかしいだけじゃないのよ」という友人のコメントのとおり、たしかになつかしいだけじゃない。なにげないエピソードのひとつひとつが「ある」「あるだろうな」「あった…」「あっただろうな…」ということばかり。

子どもの頃は「戻りたくない日常」があちこちにあって、たとえばいじめにあうといったって、実際それは露骨なものではなくてモノを隠されたり捨てられたりするようなこと。家で聞きたくない会話を耳にするといったって、それは聞きたくないどころか自分の存在を脅かすものにみえる大人の本音でもあったりして、耳にしちゃったどころのざわめきじゃすまない。いつも最悪の事態を想像しておく癖がつく。
この映画の中で、10歳の子どもが決して返せないはずの金額を「お金なら返すから」と大人のような口調で言う場面がある。そこで、この子は大人同士のコミュニケーションを見すぎている、と感じる。そこからは胸をぞうきん絞りのように絞られっぱなしの時間が続く。
いまのわたしは、自分の機嫌は自分で整えなければいけないことや、自分の居場所は自分で作らなければいけないことを理解するくらいまで生きてきたけれど、それでも大人はひとりになれば子どもの延長だし、不機嫌さをなんとかしまって過ごすだけで精いっぱいってこともある。年齢は関係ない。役割を先に与えられたり引き受けてしまうことで発生する摩擦というのはあちこちにあって、この世界もまったくめずらしい設定ではない。

この映画は、この人なんでこんな生活してるのとか、なんでこんなこと言うのとか、なんでこんな行動をとるのかが、行動や持ちものや景色やインテリアでわかる。セリフが少なく説明もないのに、それぞれの抱えているさみしさの色がちゃんと伝わってくるから不思議。なんでこんなふうに伝えることができるのだろう。
この映画は、どこまでも観ている人を画面の中の人にしようとするかのような魔力がある。


 帰りたくない


わたしも子どもの頃、よくそう思っていた。
以前住んでいた家に帰りたいと思っていたことや、知らない人にやさしくされたときのこと、ほかにもいろいろなことがフラッシュバックして、わたしだけでなく周りの人もずっと泣きながら見ているようだった。ほんとうに途中から「ずっと泣きながら」ということになってしまう。
わたしは、苦しいことは家族にだけは話してはいけないものだと思っているところがある。この映画は、苦しさを口にしたらまるで自分が甘えているかのような会話のフォーメーションにしかならない環境で育った人を抱きしめてくれる。苦しいときに必要なのは、相談相手ではなくこういう共感。
この映画をすすめてくれた友人も、たぶんそうなのだろうな。友人もわたしもこの映画の女の子と同世代で、わたしたちが小学生の頃は「おしん」が大流行していた。当時の小学生で、1ミリも甘えたことの言えない社会のムードを感じながら生きていた子どもは、実はすごく多かったのではないかと思う。



東京では「ポレポレ東中野」というところで3月のはじめまで上映しています。
これは総武線の駅のホームからの風景。