これはすごいことを可視化しようと試みたものだ、という戯曲。「人形の家」は夫婦のことが描かれていたけど、こちらは親子も含めた家族関係。
毒親の「毒」の成分分解をするとこうなる、みたいな救いのなさがいい。因習的に「家族は他人よりも思いやりのある関係」だと思いこんでしまうことがの苦しみの始まりだったという人には、こういう救いのなさは、あきらめて社会へ歩みを踏み出すための薬になるかもしれない。
ひとり、アル中の人が出てくる。その人と牧師の会話の構成がすごくリアル。自分を大きく見せたいアル中が、祈祷会を開いて講釈をしようとしているときに、こんな会話がある。
牧師:その前に一つ聞いておきたいんだがね。あんた、そういう集まりをするのに、ちゃんとした心の準備ができているのかね? 良心にとがめるようなことをした覚えはないのかね?
アル中:いやあ、そんなことは、牧師さま、良心なんて話はよしましょうや。
会話になると、投げられた球への「返し」のところで本性が出る、その一瞬の本性を落とさず、でも長すぎないセリフでテンポよくすすむ。
この物語では、家庭という設定で縛られる妄想が「幽霊」というワードで語られ、幽霊とはこういう意味だったのかと途中で驚くことになります。人物の相関関係の設定もよくできていて、少ない登場人物のそれぞれの「縛り・縛られの優先順位」がよくわかる。そしてそこで聖職者の怪しさが際立つ。
ひとり、生き物としての生命力(性欲)に救われそうな人物が出てくるのだけど、その人の生きる希望の芽も「血縁」によって摘まれてしまう。とにかく容赦がない。
容赦がないのが血縁
作者イプセンのノートには、この作品の構想コメントにこんなことが書かれているという(以下「解説」より)
現代の女性たちは、娘としても、姉妹としても、妻としても正当に扱われず、彼女たちの才能に応じた教育もされていない。その天職に従っていくことは禁じられて、その遺産相続も取り上げられ、苦い思いをさせられている ── こういう者たちが新しい世代の母親となっていくのだ。その結果は、いったい、どうなる?
この作品を読みながら関連想起したのは、夏目漱石作品に出てくるふたりの女性。「虞美人草」の藤尾と「行人」の直(なお)。設定は全く違うのだけど、彼女たちの抱えている「自分に脳みそがないとみなせば遺産相続も含めて家庭がうまく回るとわかってはいるけど、事実自分には脳みそも感情も自我もある」という苦しみと似ている。そんな自分が唯一コントロール欲を向けられる対象は… と考えたときに、「行人」の直の行動が浮かぶ。
因習の中で自己肯定の道を見つけられなかったら、どうすればいいのだろう。
なんとか探す努力をしても、それができなかったときに自己批判と死を天秤にかけたりできるだろうか。
もしそれすらできないところで心が力尽きたら、どうする?
これはキリスト教的な因習に縛られる話ですが、同時に「生まれながらにして苦しい」という設定になっているインド式もしんどいなぁと感じ、宗教って、そこに救いはあるんだっけ? という気持ちになりました。