タイトルの「女子会」はトラップじゃないかな。この小説は男性から「女に生まれなくて良かった」という言葉を引き出すところまでが計算なのではないかと思うほど、ミソジニーの分解が緻密。読み終えてから、最後の参考文献に「毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ」があり、妙に納得。どうりでこの感情に既視感があったわけだと思う。
ちょうど同時進行で夏目漱石の「三四郎」を読んでいたので、いくつか対比で気になることがありました。「三四郎」は男性を中心とした交流の話。主人公の三四郎と友人の与次郎には学生の身分として格差があって、そこのプラスマイナスの計算は絶対に犯さない。その範囲のなかで、本音までお見通しの会話が突如展開したりする。
いっぽう、この「ナイルパーチの女子会」の女性たちは、いったんタガが外れるとどこまでも踏み込んでいく。女性の正社員と派遣社員の格差では、下から支配をしにいく女性が本気を出したときのエンジンのかけ方がいきなりフルスロットル。そして踏み込んでいくことを期待している、自分たちの領域ではできないことをワイドショー的に期待して楽しむ男性の心理までつまびらかにしてしまう。
「終点のあの子」でも「嘆きの美女」でも「けむたい後輩」でも書かなかったところが書かれていて驚く。
こころの状態に細かく病名をつける社会の中で、これだけの狂気をざざざーっとストーリーの中で編みながら走らせていく勢いもすごい。
ストーリーは女性が女性に執着する話だけど、わたしはこの小説に登場するすべての女性に「あるね!」と共感する要素を見出したし、「この女性みたいな男性、いるねぇ」とも思う。わたしは男性がホモソーシャル社会を築いていたところで「今日も平常運用ですね」という感じで、そこに対して「男社会って、たいへんね。どれどれ」とはならない。
この小説は、女社会、男社会、仕事社会、友達社会、ご近所社会が描かれ、読後の共感が広範囲にわたる。とりわけ親子関係の描写はかなりしんどい。
く、狂ってる…。としか思えない行動やセリフの走り出したら止まらない感じは、まるで「かもめんたる」のコントのよう。女同士のドロドロしたホラーのように見えるかもしれないけれど、映画の「ルームメイト」を煮詰めたようなものはこれまでに何度も書かれていて、この小説の主題はほかのことにあるように思えてならない。「さびしい!」という叫びに周囲が気づいていながら手をこまねいてしまう感じは、自分も過去に周囲を困惑させたことがあるはずのもの。
ある人物が指摘するこの言葉が、なんとも沁みる。
「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。いい加減、大人になりなさい」
どうやったら人はつながって助け合っていけるのか。
わたしはこの小説のラスト、好きです。
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