この本を読んではげまされない女性なんて、きっとひとりもいない。結婚・出産の経験に関係なく。ところどころ泣きながら爆笑しながら、イッキ読みしてしまった。目の奥の鈍痛がなかなか抜けない。
自身を「ネガティブ・ネイティブ」という作家さん。こんな人でなければ言語化できないであろう男女の役割についての葛藤は必読。
少し前に「乳と卵」を読んだわたしは、作家さん本人が乳の変化について「乳と卵」で行った描写の想像力のなさを詫びているのに笑ってしまった。妊娠中の乳首の色については「アメリッカンチェリー色」と描写したけど、ちがったらしい。「乳首はね、液晶テレビの黒だったよ。電源を落としてるときの、液晶テレビの画面の黒、だったよ……」と。授乳後については、「ぶらさがった二枚の靴下」と形容したけど、「打ちひしがれたナン」(カレーの)のほうが近いと。
こんなふうに親しみやすいトーンなのに、現代の妊娠出産子育てのリアルな描きかたは、たいへん沁みる。
少なくともわたしは出生検査をした時点で、「きみよ、生まれて来い、わたしがありのままで受け止める」という態度はとらなかったんだな、ということは事実だった。後悔とか、後ろめたさとか、そういうのじゃないけれど、でもたしかに、それは点のような空白として、わたしのなかに残っている。
(出生前検査を受ける より)
こういうことを正当化も自己批判もしすぎずに、あるものとして見つめる姿勢がいい。ちゃんと見る感じ。このほかにも、無痛分娩の説明会で参加者数に単価をかけて売上げを計算してみたり、エアロビを異様に推奨する病院にウソをつこうとするも、うまくいかなくて日本語が崩壊したり。
先輩妊婦のミガンさんの話も印象に残る。川上さんがものすごい食欲でラーメン大盛りを食べるのを見ながら、こんなことを…。
「すごいよな……そらわたしもすごいけど、あんたもたいがい、すごいよな……でもさ、男の思春期の性欲とかって、たぶんこの何十倍もすごいんやろうな……」
としみじみいうのだった。
ミガンのおなかにいる赤ちゃんは男の子と判明しているので、このようにときどき暗い気持ちになるのらしい。
(そして回復期 より)
こんなふうに「欲とメンタルの関係」の話が、よく出てきます。生命力の話。
身体の描写で、ここも印象に残りました。
(帝王切開手術のあと)
顔を動かすだけで、腹筋を使っているだなんて、知らなかった。
何かを思うだけで、おなかにちからが入っているだなんて、知らなかった。
(なんとか誕生 より)
「思う」だけでもというのは、たしかにおなかを切ると、すごく感じるのだろうな。
まだ3冊しか読んでいないけど、わたしはこの作家さんのこういう親鸞的なところがすき。
生まれてきたとき「この子を極悪犯罪人にしてやろう、うくく」みたいに考えた親って、いないはずである。でも、なぜか犯罪者になってしまったりするのである。毎日どこかで必ず犯罪が起きて、ふつうの人が犯罪者に変化してしまう瞬間があるのである。誰に「我が子だけは、だいじょうぶ!」などといえるだろうか。少なくとも、わたしはいえない。
(頭のかたちは遺伝なのか より)
ほかにも、誰にも支配・決定なんてできないことにたくさん言及されていて、倫理とか社会とか、そういうことへの向き合いかたや、自分の中に発現するプレッシャーへの葛藤が細かく書かれています。
そして、小説で今までそういうことを書いているのに、「すべて真夜中の恋人たち」で石川聖にそんなセリフを与えていたのに、こうくる。
なんでも考えすぎず、自分の偏った想像力を信用しすぎず、ときには流れにまかせて選択するということが、思いがけないけっかをくれることを、はじめて知ったような気がする。
(仕事か育児か、あらゆるところに罪悪感が より)
産後クライシスと呼ばれるもののピークを乗り越えてのコメント。これは小説の中の言葉ではなくて、本人の言葉なんだよな。と、妙にしみじみくる。
この本を書いているおかあさんも、そして夫のおとうさんも、作家。言語化ができる人たち。そんなふたりでも、こういうメンタルで険悪になったりするのだから、それだけホルモンバランスというのは魔力を持っているもの。
別の作家さんの小説だけど「坂の途中の家」を読んだときと似た感覚を抱きました。女性がなぜか当たり前のように抱く罪悪感について、しっかり見つめて書かれています。
共感したり励まされもするけれど、それだけじゃないことに切り込んでる。世の中には自分よりも大変な状況の人がたくさんいることにも配慮しつつ、だからといって、社会ではたらきたい女性はここまで諦めなければいけないのかということについて丁寧に書かれているし、「誤解をおそれずに言えば」みたいなエクスキューズをせずに書いている。すばらしい。たいへんおすすめです。
▼このコラムも、必読だわよ。
- 川上未映子のびんづめ日記(日経DUAL)
▼紙の本
▼Kindle版