10名の共著なので複数のポリシーが混在し「これからのメディア」というタイトルにはあまり合っていない内容と思えるものもありつつ、これも多様性。
そんななか、フィルムアート社の川崎昌平さんというかたの書かれている内容がとてもよく、あらためて認識することが多かった。
メディアの煽りに耐性を持つのが、情報化時代で鍛えられたユーザーの共通点です。彼らをなんとかして「その気にさせる」よりも、受け手をある程度想定しつつも、黙々と自分たちの思考を深め、多様な解釈が立言するのを待つというのも現代的かもしれません。
(65ページ受け手を「想定しない」メディアを)
イエス/ノーを突きつけるような二元論は思考力を奪いますし、世の中そんな白黒はっきりするほどわかりやすくできていません。(中略)メディアの側が、勝手に「わかりやすくさせなければいけない」などとは思い込まず、むしろ「刺激的な、価値のある曖昧さ」をインタビューで得られるようにしましょう。(140ページ 白黒をはっきりさせない!)
基本はシンプルに堂々としていることが、新しいメディアをつくろうとする上では重要なように思います。
(153ページ ユーザーはタイトルをまず見る)
あるメディアに関わる人間同士が、お互いのやっていることを「知らなすぎる」のは、現代特有の問題のように感じます。
(161ページ 平塚らいてうと三秀舎)
うなずくことばかり。
このほかの執筆者さんの部分では、「ラフデザインをしながら考える」という章で、ドナルド・A・ショーンというかたの「リフレクティブ・イン・アクション(行為の中の省察)」をすこし紹介しつつ展開される、ワークショップを行う際の「省察とはなにか」のリストアップがたいへんためになる。
こういうのって、仲介者(オーガナイザーとかコーディネーターと呼ばれる人)が入ると文化祭のようにやって終わりになりがち。こうことを、できるだけ自分の中でひとり二役でやる。すごく大切なことだ。
このほか、ありがちなこととして
自分が組織という大きな共同体に飲み込まれ、その共同体だけに通ずる決まり事を最優先にするだけで、社会に生きていることなどを考えなくなり、人任せで文句ばかり言ったり、空気に流されてしまったりすることへの危機意識を持つことが重要であるということです。
(107ページ 「空気」に流される危機感 苅宿俊文)
その環境に身を置くと、そうなる。これはそうしない環境とか、はたらきかた、プロジェクトへの参加スタンスの工夫で回避できることもある。
差別用語にしても、ヘイトスピーチなどよりも、何気なく使っている言葉のほうが危ない。「みんな」「ふつう」「元気」。こういう言葉は、表層的に使うと当たり前すぎて、誰も否定しようがなくなる危険があります。
(205ページ 編集デザインのチェックリスト! リスクマネージメントはできているか? より)
これは、ほんとうにそうなんですよね。まろやかだけど根っこは多数決原理主義だから。
このロジカルな視点もためになる。
小さいところから丁寧に編み上げることは大切ですが、その限界がある。例えば日本の個人視聴率1パーセントはだいたい65万人。そこで描かれる女性像や外国イメージを、メディア論がどれだけ批評しても視聴者にはほとんど届かない。今の日本の反知性主義的な閉塞感の基本には、こうしたサイズ感がもたらす絶望がある。我々の宿命であると同時に、それをどうしていくかはチャレンジですね。
(206ページ 座談会「私たちは、今なぜ、編集デザインを必要とするのか」より 水越伸氏の発言部分)
この感覚って、すごく大切。
このほかにも、各章の合間に挟まれる「編集デザインのチェックリスト!」にあった
・内輪の話は家でやろう(79ページ)
・文章のヴィジュアルに気をつけている?(162ページ)
は、メモしたいところでした。
この本のあとがきに『ノイズやグロテスクを欠いたメディアは「場所」にはなりません。』(高木光太郎氏)とあり、しみじみそうであるなぁと考えました。乗り物としてのメディア。まるで身体みたい。
仕事の勉強のために読んだ本でしたが、ヨガ方面で役に立ちそうなことが多かったです。