うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ずうずうしいかどうかは、受け手次第

それが「ずうずうしい」かどうかは受け手の感情で決まるもののはずが、最近耳にする機会は「発信者ジャッジ」であったり「第三者ジャッジ」であったり。反転側転している機会をよく見かけます。
それをされて親しみと受け取るかどうか、この中間での「ゆれ」を機嫌といわれるうちはまだいいのだけど、すでに好き嫌いのうちの嫌いに振れているものを「機嫌が悪い」といってしまうのは、たいへん雑な感じがする。
人間の心と体はナマモノなので、中間くらいだと体調やお天気にも左右されるかなと思う。なので、「ごきげんよう」という挨拶があるのかもしれない。


「ずうずうしいお願いですが」といわれて、「それはこれからわたしが感じることでは」と、頬づえの肘がスベったような感覚になることがたまにあります。だんだんエスカレートすることもあって、「フレンドリーですね」といわれてさらにエスカレートする。「フレンドリー」の判断と確定の主導権が相手側にあるのは不思議な感じもするけど、これはすごいマジックワードで、観察していると「一般人でも使える黒魔術の初級編」みたいでとてもおもしろい。


「なれなれしい」も、おもしろい。この語は「受けた側」が発すると妙にえらそうに聞こえることになる。第三者的に使うときだけしっくりくる。わたしは以前、「いかにもメディアのギョーカイ人」ぽいしゃべり方をする人のことを、「ああいう感じは、なんていうのかなぁ。なれなれしい? っていうのかなぁ。なんか、とんねるずっぽい人だね!」と同僚にいったら、「うちこちゃん、ああいうのを、いまは "チャラい" っていうのよ」と教えてもらったことがあった。「なれなれしい」との線引きがむずかしい案件だった。


「なれなれしい」と「ずうずうしい」は圧倒的に違う。前者のほうが支配欲は少ない。わたしは「なれなれしい」は、なんだか80年代っぽいと思うくらいで、そんなに嫌な気はしない。豊かな感じがする。「ずうずうしい」は、セコいなと思う。貧しい感じがする。





・・・そんな軽薄な思索を経つつ。
最近、人の態度や世のサービスがクローズドになっていくのは、こういうことで疲弊しないための当然の工夫と思うようになりました。水準の高い世界が閉じられたところにあるというのは、自然の摂理。
対人関係に魔法がかかっているときは、ずうずうしいことがうれしいこともある。言いかたがどうとか、実はそんなに重要じゃないのだと思う。投げる側の言葉が重要なんじゃない。受けた側が感じたものがすべて。



たとえば、酒場に男女がいたとしますよ。



「(俺のこと・わたしのこと)ずうずうしいと思っているでしょ」



と言われたとします。
そこで




(わかっているなら、もうそろそろお開きにしたいのですが……)




 なのか、




(いいえ。むしろ歓迎です)




 なのか。




後者はもう、幸せな瞬間ですね。こういうときがいちばん楽しい。



  ん?!
  今日の話はそっちじゃない! ヾ(゚ε゚ )



今日の話は前者の場合です。アルカイック・スマイルって便利だなぁと、ブッダの偉大さを感じる瞬間でもあります。押しの強めな訪問販売や売り込みの人に、わりと強めに「早く終わらないかな」を表明しても伝わらないのと同じ状況。発し手に発生しているベクトルは発し手のもの。怒って帰ってもらうのは疲れるけど、そうしないと終わらないならそれでもいいかも。いや、よくないな。「怒ってもいいですか」と、まずは聞いてみよう。


いずれにせよ「ずうずうしいお願い」というのは、関係が好き嫌いに振れていない時点では残念な道を行く可能性がガバッと広がってしまうリスクが大きい。「ずうずうしいお願い」を口にする人としない人の境界は、尊重される人とされない人の境界とイコールに近いと思っているのだけど、どうかな。
わたしは、自分の世界を狭くしないために「ずうずうしくない道」を選ぶというのは、たいへん地味にアグレッシブでよい戦略だと思っています。