うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

だれも知らなかったインド人の秘密 パヴァン・K. ヴァルマ 著 / 村田美子 翻訳


タイトルは大げさに見えますが、内容は「どのインド人もここまでナマナマしくぶっちゃけなかった、インド人の慣習と考え方」という感じなので、あながち大げさでもありません。インドへ何度か行ったことのある人は、どの部分から読んでも必ず10ページ読み進めるまでの間にタテノリになってしまう箇所があるでしょう。
わたしはインドに長く住んだことがあるわけではないのでそんなによくは知らないのですが、それでもこの本は「もうそのへんでやめてあげて」と思うほどあけすけ。言うなれば、日本人のわたしが外国人向けに「日本の中でも京都の人は、高齢になるほどかつて都であったこの都市に特有の誇りを持っています。若年層になればなるほどその傾向は弱まりますが、全体として土地に対するブランド意識が高いため、現在の首都である東京からやってきたブランドにわかりやすく飛びついたりします。そして、京都から東京に拠点を拡げて成功したブランドは、地元で嫌がらせに遭うこともあります。一方で、英語やインターネットを使いこなす若い世代は京都の特徴を生かした新ビジネス "町屋ゲストハウス" で成功しています。(この例文はイメージですよ)」というようなことを書くのと似ている。そして、事実とともに語られる「考え方」の説明がイイ。

<107ページ「贈収賄は当たり前」より>
デリーでは教養ある中産階級市民の50%が電気代をごまかし、産業界でも多くの会社が電気代を払わなかったり、少なく払ったりしています。ウェブサイトで博士課程の論文が売られていますし、力を持つ教授がお気に入りの学生に特定の教授だけに審査してもらえるよう、「アレンジ」したりもします。ガンジス川沿いにある聖地ハリドワールでは宗教道場の長である人たちが地元の土地マフィアと手を組み、土地獲得に精を出してます。ハル・キ・ポリでは神聖なガット(インドの川岸の階段)で動物の臓器が売り買いされています。知事がチェックに入ろうとすると、激怒した商店主が彼を襲撃しました。


(中略)


『タイムズ・オブ・インディア』は「インドには体質的に収賄がはびこる何かがあるのだろうか」と国際的な告発に悲痛なコメントをしていますが、インド人は取り立てて驚いたり、ショックを受けたりはしていません。2000年前、元にアルタシャストゥラには「公務員が公金を横領したりするかどうか見張るのは、魚が水を飲んでいるかを確かめるのと同じくらい難しい」と書かれているのです。

「アルタシャーストラ(カウティリヤの「実利論」)」を持ち出す(笑)。でもほんと、生活の奥底に「マヌ法典」に通じる考え方があるのと同じで、インド人はとても実利に正直です。わたしはここに、付き合いやすさを感じたりもします。



<169ページ「批判的思考力・創造性の欠如」より>
彼らは自分の身近な社会で自慢できる成功にすぐ満足します。たとえば高学歴、高給の仕事、大きな家、地位、海外旅行、海外勤務などです。目標は貪欲に求めますが、方法は相変わらずで、独自性などは見当たりません。社会的に受け入れられるという理由で教養あるインド人は大勢に順応します。たとえば中産階級のインド人エンジニアは良い仕事を得た時点で自分へのスヴァダルマ(義務)は果たされたと感じ、それ以上は何も必要ないと考えるのです。その結果、大望は発育不全のまま、お利口な仕事志願者を多く抱え、アイデアの点で先駆者が出てこない国、インドができ上がってしまったのです。

現代インド人のスヴァダルマなんて、こんなもんですよ。とは言わないまでも、自然に出てくるスヴァダルマ(笑)。
そしてこの箇所は先日観た映画「めぐり逢わせのお弁当(The Lunchbox)」に出てくる主人公サージャンの仕事の後任の若者シャイクがまさにこんな考え方で、その彼が「この国は人を能力で評価しない」みたいなことを言う場面があったのですが、「あ”あ”あ”あ”、これとてもインドっぽい愚痴」と思ったのを思い出しました。
そうそう、この本には映画と同じ舞台「ムンバイの弁当配達ビジネス」の紹介もありましたよ。



<111ページ「儲け話に飛びつく」より>
 ムンバイでは夜明けと共に5000人の起業家たちが起きだし、西洋の経営学の先生もびっくりするほどの正確さで、仕事をこなしています。これは弁当配達屋さんと言われる商売で、ムンバイにある15万人分の弁当を会社まで配達してくれるのです。「弁当」は各家庭から集められ、人的ネットワークを通して仕分けされ、配達され、同日のうちに家庭まで返却されます。コンピュータを利用しているわけではありません。弁当は色分けされ、文字が読めない配達人でも配達間違いが起こらないように工夫されています。800万件で1回ミスがあるかないかで、効率レベルは99.999999%です。これで代金が1ヶ月・1人当たり3ドルというのは手軽です。年間総売上高が2000万ドルというのは、比較的小さいかもしれませんが、労働者1人につき約100ドル還元できるので、インド人の生活レベルでは十分魅力的な仕事です。

映画のなかで起こった奇跡は0.0001%の確率だったんですね。そんなことよりも、あの映画は最後の「弁当配達屋のおじさんの台詞と態度」が見どころというか、あれがかなりリアル。あの映画はインドに長く住んでいた友人と一緒に観にいったのですが、「最後のあのおじさんの台詞!」「まさにインド!」と共感しまくりました。こういう社会システムは、日本では発生し得ないというか、「シンプルな誇りの精神構造×分業ルーティン・ワーク」で多くの人を保障していくって、すごくいいシステムなんですよね。




わたしはインド人のお金に対する姿勢と伝統への向き合い方のバランスが好きなのですが、こんなすごいエピソードが紹介されていました。

<96ページ「金への固執は本能」より>
聖地、プシュカルではサヴィットリ・デヴィ寺院の僧が、近くのブラーマ寺院を相手取って、信者からの貢物を自分たちにも回してくれるよう、裁判で要求しました。この世を創造したと言われるブラーマは妻サヴィトリ天地創造の儀式に遅刻したという理由で離婚したと伝えられています。なんと、2001年、地方裁判所では、弁護士たちが「創造主は離婚後の生活費をサヴィトリに払うべきだ」と議論していたのです。収入を増やすために扶養料を要求し、結婚神話を持ち出すなんて、世界にこんな国がほかにあるでしょうか!

これはぜひ傍聴に行きたい。



<187ページ「脚は過去に、手は未来に」より>
 心を「仕切る」能力は、短所にも長所にも働きます。過去の迷信や偏見が残ったまま、近代科学や技術の世界に入っていくからです。伝統を保つことが決して科学や技術の世界に対して障害にならないことは長所です。インド人はどちらか1つを選択することはしません。足は過去の非理性的なものにしっかり埋め込んだまま、手は科学技術の未来を申し分なく形づくるのです。

(中略)

彼らは2つの相反する世界を自分らしさを失わずに渡ることができ、伝統的でもあり、近代的でもあるのです。最も大切なことは、何としても成功して良い生活を送りたいという夢があることです。

ここはほんと感心する。




上記のようなことへの精神面の説明もある。

<129ページ「物質主義と共存する精神的な伝統」より>
 インド人が根っからの物質主義者であるなら、生活のなかで信仰はどんな役割を果たしているのでしょうか。この質問に答える前に、まず、「インドでは1つを認めることが、他を否定することにはならない」ということをしっかり理解していただきたいのです。インドは白・黒はっきりつける社会ではありません。機械的にイエス・ノーで理解できる現実ではないのです。グレーの部分が間にあります。

0と1の概念も、0は「無いという状態がある」という、有と無を延長線上で結べる思考。日本のグレーよりも、もっとグレーが堂々としていてやさしい感じがします。




次に紹介するのは、上記とはある意味逆かな。

<122ページ「大消費ブーム」より>
インド人は血族・カースト・コミュニティーなど大きな社会グループに属していますが、個人としてのインド人は一般的に強迫観念にとらわれ、自分の殻のなかだけで勝ち負けに始終する傾向にあります。人間は運命を背負って生まれ、前世のカルマ次第で、今、栄えたり、苦しんだりすると認識されています。人生は体験の連続であり、貧者が飢えや貧しさから救済される可能性は来世でのことで、人間が介入できないと考えています。階級制は社会に不可欠なもので神聖な是認なのです。低い者は恵まれないよう定められ、トップにある者は当然の権利として多くを持てるのです。しかしもし、定められた地位から出られるチャンスがあるならば、自分の力で、自分のために、たとえコミュニティーに反対されてもつかみ取らなければなりません。

この本では、他の章で「カーマ・スートラ」のヴァーツヤーヤナ(この本ではヴァチャヤナ)やアルタシャーストラのカウリティヤ(この本ではアルタシャストゥラのコーティリャ)の言葉を引きながら、ブラーミン(僧侶階級)や作家が社会で支配的な役割を担えるように主張するロジックを紐解き、このように結びます。



<93ページ「ヒンズーの神々」より>
実用主義に心があまり動かない人のために、次のように念入りな説得を説得を続けます。「アルタがなければダルマも実行できないし、カーマも得られない。息子が生れなければ神や祖先も敬う人がいない。そしてモクシャ自体も危うくなる」と。物質的な豊かさは、決してモクシャの障害にはならず、逆に生計が立つ人だけが救済の道に専念できる、と言うのです。

アルタ=実利、ダルマ=法、カーマ=愛。←ここまでがトリヴァルガ(3つの目的)。そこにモクシャ=解脱がこうからんでくる。「そしてモクシャ自体も危うくなる」は強引だなと思う。「生計が立つ人だけが救済の道に専念できる」というのも巧妙だなと思う。クリシュナもこういう論法をギーターの中でしていて、たまに慣れてスルーしちゃうのだけど、スルーしないときはあたまが冷えていると思う。




以下は、よくこれも盛り込んだなぁと思う、ありがたいと思う内容。

226ページ「相手を呑み込む知恵」より>
プルサクスタという『リグ・ヴェーダ』のなかの歌は社会を人間の体にたとえています。すなわちブラーミンは頭、クシャトリアは腕、ヴァイシャは腹、シュードラは足というふうにです。階層性の重要性はもちろんですが、その本がもう1つ言わんとしていることは、「全体のどの部分が他よりも大切だとか、優位にあるとかではなく、互いの協力、そしてサービスの交換がこの有機組織体理論のエッセンスなのだ」ということなのです。部分、部分が競争していては全体の統合が脅かされます。
 インド人は事柄の処理に関して、瀬戸際から妥協へと舵取りをする傾向にあります。それは歴史から学んだことです。譲ることを負けとは思いません。回避可能な失敗で余分のエネルギーを使わなくて済むのなら、譲歩はむしろ勝利と言えるのです。

インド人の、権威やステイタスに対する過剰なアンテナの張り方の背景もわかりやすく説明されていました。



<41ページ「ステイタスの重要視」より>
オカットは翻訳が難しい語で「ステイタス」とほぼ同義ですが、100%同じではありません。もしある人がオカットを尋ねられたら、そのこと自体が侮辱になります。

ここに切り込んでいる本はめずらしい。



<42ページ「オカット」より>
 昔はオカットを決める決定的な方法がその人のカーストでした。現在も一要素に変わりはありませんが、他の手段もステイタスを決める要素になります。その人のステイタスを知らないで初対面に臨むことは、深さも知らないでプールに飛び込むようなものです。応答の仕方、振る舞い、ボディーランゲージ、社会的背景、話ぶり、受容性などによって、その人が持つ権力や影響度を測ります。政界の長老やメディア・スポーツ・ビジネス関係など、国中で知られている人に関しては、ステイタスが高いことがはっきりしています。しかし、そうではない人の場合、インド人は次のような差し出がましい質問を浴びせることによって、ステイタスを探ろうとします。お父さんの職業は? 住まいはどこ? どこで勉強した? だれと親戚? 知り合いの権力者はいる? 止めどもなく質問は続きます。質問をする側も、される側も、違いや距離や親しさが入れ違いにならないようにするために必要な質問であることを重々承知しています。返答は非常に重要なのです。父親の職業は社会的な背景を知る手がかりですし、住所は豊かさや貧しさのバロメーターだけでなく、さらなる情報を与えてくれます。


(中略)


 インド人は「コネ」の重要さをよく心得ています。もし自分が誰か重要人物を知っていたりすると、すぐそれを口にします。相手の出方がそれによって変わってくることをよく知っているからです。アラン・ローランドという精神分析家が、インド人は人の優劣に関してレーダーのような感受性を持っていると言っています。それにより「インド人は文脈や相手に合ったことを語ることができ……そのような環境の下での意味は文脈や聞き手の実態によって引き出されます」。コネに動じないとか、コネはいらないというインド人は皆無だと思います。

なんというか、夏目漱石の小説の時代の日本みたいなんですよね。飛行機で隣の席になったインド人に、わたしのホームステイ先の家族のことを根掘り葉掘り聞かれたり、とにかく思い当たることはたくさんあります。若い世代はまたちょっと様子が違っていて、たとえばわたしがウェブの仕事をサポートしているインド人の友人は、わたしがインドで彼らと一緒に行動した様子を Facebook にあげようとしていないか、チェックして制止してくる。「君はインド人の友人が多いから」と。日本人のコネクションがあることやディテールを知られることがマイナスにはたらく側面もあるみたい。まー、とにかくややこしいのだけど、でも日本も実際根っこはそうだと思うので、いろいろ目が覚める思いをします。



<55ページ「ごますり・お世辞」より>
 権力や権力者を崇拝するインド人の性癖は特徴的な行動様式を生み、その1つであるごますりは昔も今も、インドでよく見かけます。インドでは常識として権力者はエゴをもみほぐしてもらいたいというニーズがあり、下の者はそれに応える必要があるのです。

これはインド映画を観てもわかると思う。ぜんぜん誇張じゃないの。



<73ページ「権威のオーラ」より>
 インドのメディアは政治家のプライバシーに焦点を当てることはめったにありません。政治汚職に関しては遠慮ない批判がなされますが、たとえば性に関する個人的な情報はとりあげません。権力者には服従するのが常であるインド社会では、プライバシー保護は権力行使の一環となっています。

ここがね、なんというか、ある意味ちゃんとしている気がするんです。日本はなんでも中流、民意で悪者と決めたらメディアリンチもムードでアリになってしまうところがありますが、インドはそのへんは踏み込む範囲の線引きがある。


インドを紹介する本はたくさんあるけれど、インド思想の背景を踏んで語られる内容に喝采を送りたい。
ヨガを好きになってインドへ行って、シャンティなことを期待していたのにそうではなかったインド人の側面を見て怒っている日本人をよく見るのですが、学ぶところはそこじゃない。その実利思考にこそ学ぶところが多い。
実は日本だって権威社会だよねって思いながら暮している人にもオススメです。