「チャラカ・サンヒター」を読んでいたら、ヨーガの定番マントラ「Sahana Vavatu」の意味の背景をよくあらわしている箇所があったので紹介します。
「チャラカ・サンヒター」第三巻八章の前半は医者の倫理に関することが詳しく述べられ、後半は「論議道」(vadamarga)が述べられるという構成で、そこには初期のニヤーヤ学派の論理学が見いだされるそうです。学問的には「論議道」のほうが花形なのですが、わたしにはこの前半の医者の倫理に関する記述にある「学習伝授規定」がとても興味深かった。
第三巻八章十四節 <四『チャラカ・サンヒター』における医者について>解説部より
「(医師が「すべきこと」「すべきでないこと」の列挙のあとに)
実にアーユルヴェーダの彼岸は容易に渡ることができないから、油断せずに、常に努力を怠らないでその道を進んでいくがよい。以上のようにするべきである。このようにしてさらに正しい行為を、他人からも嫉妬心なしで学ぶべきである。なぜなら、思慮なき人にはたとえ敵であっても、思慮ある人にとっては世界の人々はみな先生であるから。したがってたとえ敵の言葉であっても、幸福に導くもの、名誉をもたらすもの、長寿をもたらすもの、滋養になるもの、世のためになるものであれば、それを聞くべきであり、それに従うべきである」
と。このように医師が言うと、生徒は
「はい」
と答えるがよい。そして教えられたようにしつつ学ぶべきであり、教えられなかったように学習してはならない。師は教えられるべき人を教えつつ、(他の書物に)述べられている学習の成果によってヨーガ(師と弟子の結合)を獲得し、その他上には述べなかった、至福をもたらす様々な徳性を弟子と自分自身に賦与することになる。以上が学習伝授規定である。
末尾の「師は教えられるべき人を教えつつ、(他の書物に)述べられている学習の成果によってヨーガ(師と弟子の結合)を獲得し、その他上には述べなかった、至福をもたらす様々な徳性を弟子と自分自身に賦与することになる。」というところが、すごく沁みます。
インドの学びの環境は、教える側と受け取る側の事前エンゲージメントが伝統のなかで醸成されている。
それがない日本では、濃く太い学びは「授業料さえ払えば、誰でもどうぞ」という環境では実現できないんじゃないかな、というのがわたしの今の考えです。まえに「ある道場で体験初日に破門された人の話」を書きましたが、やっぱりそういうのって大切。
ということを常々考えたりしているのですが、立場的にはいつも孤独なので、この部分を読んでたいへん励まされました。
▼「チャラカ・サンヒター」について、いくつか書きました