うちこのヨガ日記

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「チャラカ・サンヒター」第25章の冒頭が傑作すぎる


先日紹介した「チャラカ・サンヒター」第25章『人間と病気の由来についての章』の冒頭をご紹介します。
「チャラカ・サンヒター」というのは、インドの医学をまったく知らない人にもわかるように要約すると、日本の感覚でいう「発熱したらお尻に長ネギを」「声が出なくなったらはちみつ大根を」というような自然医療ノウハウがズラズラズラーーーーッと、自然哲学とともに書かれた医学書です。
この「自然哲学とともに書かれた」というのがポイントで、インド医学をアーユルヴェーダといったり、その療法を近年ではナチュロパシーと言ったりしますが、さかのぼると「まず創造主のブラフマーありき」という教えです。ヴェーダというのは「知恵を伝承する」という意味を持ち、アーユルは「生命の」という意味を持つ。「生命の知恵を伝承する教え」が、アーユルヴェーダ。以上が駆け足要約。


で、この「チャラカ・サンヒター」はその医学書なのですが、翻訳者さんによる第25章の注釈に

さまざまな仙人たちが人間と病気の由来について意見を表明するこの対話は、古ウパニシャッドの対話形式ときわめてよく似ており、本書成立の初期段階を示すものとして興味深い章である。

とあるとおりたいへん興味深い。設定も内容も順番も、とにかく編集書物としてこんなにすごいものがあっていいのか! というほどおもしろいもので、朝まで生テレビのような絵が浮かびます。
アートレーヤ=尊者プナルヴァス(同一人物)の仕切りで、賢者たちが集まって「人間と病気の由来について」見解を語り合ったよ。という内容なのですが、中盤からアートレーヤの弟子のアグニヴェーシャが質問を投球して師のことばを引き出していく展開になります。


こんな出だしです。(末尾の数字は節番号)

「さて、これから人間と病気の由来についての章を語ろう」(1)
と尊きアートレーヤは言った。(2)
はるか昔、聖仙たちが一切諸法を直覚した尊者プナルヴァスの前に集った時、アートマン・知覚器官・マナス(思考器官)のかたまりである人間(プルシャ)と呼ばれるものと、さらにはもろもろの病気の根本的発生原因を決定するために、次のような議論が行われた。(3・4)
その時、カーシー地方*1の王であるヴァーマカが聖仙の集っているところに近づき、しかるべく挨拶をして、意義深い質問をした。(5)
「先生がた、いったい人間がそこから生れる(と考えられる)その同じものから人間のいろいろな病気も生ずると考えられるのでしょうか。それとも、そうではないのでしょうか」このように王が(問うて)語ったので、プナルヴァス仙は聖仙たちに言った。(6)
「あなたたちは、みんな無限の知恵と判断力によって、疑いというものをなくしたかたがたです。そういうあなたたち(こそ)が、カーシーの王様の疑問を解決してあげるのがふさわしいです」(7)

  • アートレーヤ=議論の発案者(師・主役)
  • ヴァーマカ=あおる
  • アートレーヤ=じゃあ会議すっか、とファシリテーションにまわる

と言う流れ。
ここから各派代表のトークへ進むのですが、持ち寄る主張がとにかく豪華!


〜登場する各派代表のご紹介〜

  • アートマン学派:ムドガラの子孫パーリークシ仙(8・9節)
  • サーンキャ哲学:シャラローマン仙(10・11節)
  • ラサを体組織の最初と考える人:ヴァールヨーヴィダ仙(12・13節)
  • サーンキャに近い説をとる人:ヒラニャークシャ仙(14・15節)
  • 先天的遺伝論をとる人:カウシカ仙(16・17節)
  • カルマ論・宿命論をとる人:バドラカーピヤ仙(18・19節)
  • アーユルヴェーダ仙人:バラドヴァージャ仙(20・21節)
  • プラージャーパティ(神)を創造主とする人:カーンカーヤナ仙(22・23節)
  • 乞食行者のアートレーヤ:冒頭の、ファシリテーターとは別のアートレーヤさん(24・25節)


このメンツ、ワクワクしますね。内容はその期待を裏切らず、インド六派哲学盛隆時の会議の議事録を読ませてもらったようなおもしろさ。わたしと同じ勢いで萌え萌えキャッキャする人はそんなに多くないと思うので、いちおう引用しつつコメントをはさんで紹介しますね。

ドガラの子孫パーリークシ仙は、この(質問)についてよく考えたあと(他の聖仙に)先んじて(次のように)語った。
「人間はアートマンから生じ、病気もアートマンから生じます。なぜなら、アートマンは(一切のものの)原因だからです。アートマンは業(カルマ)を蓄積し、業の結果を享受します。アートマンなしには幸福とか不幸の現実的展開もありません」(8・9)

アートマン=ブラフマンの一元論のスタンスです。ヴェーダーンタですね。


しかし、シャラローマン仙は、
「いや、そうではありません。なぜならば、アートマンは不幸を嫌うものであり、いかなる時でも、みずから自分に病気(というような)不幸をもたらさないからです。身体およびもろもろの病気の発生の原因は、激質(ラジャス)と翳質(タマス)に圧倒された純質(サットヴァ)と名付けられるマナス(思考器官)なのです」と言った(10・11)。

サットヴァがマナスを包括している構図をしっかり抑えている文末がシビれます。前のヴェーダーンタの主張を引き継いで「アートマンは不幸を嫌うものであり」という展開からトリグナ理論を返す。これが、体液論へのつなぎになっている。



しかし、ヴァールヨーヴィダ仙は、
「そうではありません。なぜなら、思考器官一つのみが(病気の)原因ではないからです。身体がなければ身体の病気はありません。身体がなければ身体の存在もありません。(だから、あなたのいうとおり)ではなく、もろもろの生物や(その)様々な病気は、ラサから生ずるのです。そして実に、水はラサに富んでいますから、水こそが(人間とその病気の)根本発生原因なのです」と語った(12・13)。

要するにサーンキヤがいい「踏み台」になっているんですね。アーユルヴェーダではここからは本題に近い。ヴェーダーンタサーンキヤでホップ・ステップしつつ体液論でジャンプしていくこの流れがたまりません。



しかし、ヒラニャークシャ仙は、
「そうではありません。なぜなら、アートマンはラサから生ずるとは考えられていないからです。また、思考器官も(アートマンと同じように)五つの知覚器官を越えるものであり(ラサから生ずるとは考えられません)、また、音など(の五つの微粒子)から生ずる病気もあります。(したがって)人間の六つの要素(アートマンと五つの要素、すなわち、地・水・火・風・空)から生ずるのであり、病気も六つの要素から生ずるのであり、古のサーンキャ哲学諸師たちが語っている(人間という)このかたまりも六つの要素からなるものです」と言った(14・15)。

よくここに強引に引き戻すなぁという感じなのだけど、いったん身体を物質として語る。空海さんはヨガ宗といわれるけど、サーンキヤもしっかり包含したヨガ宗だというのがここを読むとわかると思う。



このように言ったヒラニャークシャ仙に対してカウシカ仙は、
「そうではありません。どうして父母なしで六つの要素など生じましょうか。人間は人間から、牛は牛から、馬は馬から生れるのです。そして泌尿器病(メーハ)などの病気は両親から(体質的に)生ずると言われています。このような場合、両親が(病気の)原因なのです」といった(16・17)。

この時代のDNA論者は、人は牛からは生れないという(笑)。



しかし、バドラカーピヤ仙は、
「そうではありません。なぜなら、盲人から盲人(の子供)が生れるわけではないからです。また、あなたの両親が世界創造の時生まれたというわけでもないでしょう。人間というものは業(カルマ)から生ずると考えられます。また、もろもろの病気も業から生ずると考えられます。けだし業がなければもろもろの病気も人間も発生しないのです」と語った(18・19)。

こっからカルマ論に展開するの、おもしろーい。



しかし、バラドヴァージャ仙は、
「そうではありません。なぜならば業(カルマ・行為)より先に行為の主体が存在するからです。ある行為(カルマ)が(その主体によって)なされていないのに、その結果として人間が生ずるということはあり得ません。もろもろの病気人間の発生の原因は「自然力(スヴァバーヴァ)」です。(それはたとえば)地・水・風・火の(それぞれの属性である)固体性・液体性・可動性・帯熱性であります」と言った(20・21)。

カルマつながりから食べる行為、食べたもので人ができるというアーユルヴェーダの基本にぐっと引き寄せていく。この展開、すごいわー。



しかし、カーンカーヤナ仙は、
「そうではありません。なぜなら『自然力(スヴァバーヴァ)』によって(ある物事の)存在が成立したりしなかったりするのであれば、(祭儀行為などの)努力のかいがないということになるではありませんか。ブラフマンの子孫であるプラージャーパティ神*2こそ、人知のおよび難い意志を持った創造主であり、生物と無生物よりなるこの世界の、また幸福と不幸の、創造主でもあるのです」と言った(22・23)。

神話学もおさえておく展開へ。



しかし乞食行者のアートレーヤは、
「そうではありません。なぜなら、プラージャーパティ神は常に生類の安寧を望んでおられ、悪人のように生類子孫に不幸を与えたりはされないからです。むしろ人間は時(カーラ)から生ずるのであり、またもろもろの病気も時から生ずるのです。全世界は時の意のままになります。時こそ、あらゆることに対する原因なのです」と言った(24・25)。

極端ですが、「もろもろの病気も時から生ずる」という理論も入れておくことでさらに磐石になるこの構成、ニクい。そして・・・



このように聖仙たちの意見が一致しないので、プナルヴァス(アートレーヤ)は次のように言った。
「そんなふうに争ってはいけない。けだし真理というものは自然の見解によりかかっていては得難いものなのだ(26)。
反論の起こりうる主張をあたかも決定事項のように論じている間は、決して結論には至らない。まるで胡麻搾り人が(回転する搾り台の上を)動いているように(いつまでも堂々巡りである)(27)。
だから議論の衝突を避け、最高のアートマンを心に念ずべきである。(自説に対する執着という)暗闇のかたまりを払拭しないかぎり知識は(ほんとうに)知るべき対象へとは向かっていかない(28)。
(五要素などの)いろいろな要因(バーヴァ)*3が正常であれば(健康な)人間を生じるような、まさにその同じ要因が様々な病気を生ずるのである(29)。

でたー。自分だけ俯瞰視点のクリシュナ的スタンスで包括しちゃう作戦!



ここまでが、なんと「前説」。前菜にカツ丼が出てくるような勢いです。
アーユル・ヴェーダを専門に学ぶ人はこの前説のあとのほうが重要なのだと思うのですが、わたしはまだ六派哲学をうすっぺらく見ている状態なので、この前説にキャッキャしてしまいました。
本編よりも前座の人のほうが好みだったわということって、けっこうあるのよね。


▼今日紹介したのはこの本の第25章です

*1:現在のヴァーラーナシー。『チャラカ・サンヒター』と並ぶ古典医学書『スシュルタ・サンヒター』の語り手ダンヴァンタリはカーシーの王であった

*2:一切を帰す Prajapati は「一切生物の主」という意味

*3:注釈者チャクラパーニダッタによれば要因 bhava という言葉はヴァータなどのダートゥをさす