うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

貯金の親切、投資の親切(夏目漱石「三四郎」読書会での演習より)


今年から読書会形式の集いを始めまして、そこではさまざまな演習をするのですが、今日はそのなかからライトなネタを紹介します。
この日の課題図書は「三四郎」。この小説に出てくる広田先生の思想は思いっきりシャンカラなので、インド思想ベースでの読書会としては不二一元論のヴェーダーンタ哲学話が多くなりましたが、なかでも「親切」というトピックがひっかかりました。
以前【おせっかいと親切の境界 「攻めの親切」「守りの親切」】という話を書きましたが、わたしはここに過敏なところがあるのかもしれません。と思っていたら、参加者のひとり(クマちゃん/仮名)が出してくれた宿題のコメントの中に、「ああ、わたしといっしょだ……」と思うものがありました。
親切の話は支配欲や覇権欲の話に展開。ふたつの場面をまたがりました。

(意中の女性にお金を借りることになった主人公・三四郎に対する、友人・与次郎の言葉とそこからの会話)

「君はいやでも、向こうでは喜ぶよ」
「なぜ」
 このなぜが三四郎自身にはいくぶんか虚偽の響らしく聞こえた。しかし相手にはなんらの影響も与えなかったらしい。
「あたりまえじゃないか。ぼくを人にしたって、同じことだ。ぼくに金が余っているとするぜ。そうすれば、その金を君から返してもらうよりも、君に貸しておくほうがいい心持ちだ。人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」

クマちゃんのモヤモヤがどこにあるのか確認するために、青い文字のほうを「貯金の親切」、赤い文字のほうを「投資の親切」として話を進めました。もうひとり、この部分を話したいと宿題に書いてきた女性(ドラちゃん/仮名)は、自身が行っていた投資の親切(ボランティア)を振り返っての問題提起でした。


クマちゃんが苦手なのは、「貯金の親切を受けること」なのだそう。「褒められても手放しで喜べない」って、わかるわぁ。すごくわかる。いろいろあるけどひとつ具体例を挙げると、なにげなくいただいた親切かと思ったら「先日の件はいつブログで紹介されますか」といわれてびっくりしたり。そういうのもこれと似ている。


「投資の親切」に反省していたドラちゃんは、「ボランティアで、いいことしてる」という気持ちについていろいろ思うことがあったようです。「ボランティアをやりたい」って、日本語としてちょっと妙な感じがしますね。よいことは誰も咎めないからさっとやればよいし、ボランティアより報酬が出る仕事のほうが品質を見込んでもらえている、信頼関係があると考えるほうが自然なので、もらうときはもらえばいい。もらったあとに寄付してもいいしね。


こういうモヤモヤを、シャンカラ広田はこう斬る。(中身は漱石グルジ)
ここは三四郎アルジュナっぷりがたまらない場面でもあります。

「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」←ナイス・アルジュナ! ここ秀逸。
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでしょうか」
「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」
「そりゃ……」

元旦の件は「まあ儀式なので、儀式だよね」という日本の大人流の美しいクロージングに至ったのですが、この部分を抜き出して、宿題の段階でひとり二元論を展開した上で、こんなコメントをあげてくれた人がいました。

不愉快に感じるときは、相手が何か別の目的があるのに、それを隠して表面上すり替えるような表現をして、自分を操作しようとしているときにそう感じるのかもしれないと思いました。
同様に、自分も「本当はこうしてほしい」ということがあるのに、ストレートに言わずに、暗に示すような、相手が行間を読んで自ら気づいてくれたり行動してくれるように差し向ける、つまり、操作しようとしているコミュニケーションをとっていることが多々あるのではと思いました。(ヤマちゃん/仮名)

まさにこれが、グルジの言う「半面*1」であります。親切と支配欲はコインの表と裏。
ああもう、ヴェーダンティックが止まらない。胸が、胸が、苦しくなるね。


▼関連補足

*1:「こういう嫉妬とは愛の半面じゃないでしょうか。」というセリフが(「こころ」下・先生と遺書・三十四)に出てきます。