うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

日本の「良心」は「呵責」するのふしぎー!

よく日本語の不思議について外国人目線で書いていますが、わたしは日本人です(笑)。
日本人なのですが、インドのざまざまな教義の表現に触れていると、やはり日常の日本語には独特の縛りがあると感じます。




頭がインド・モードのまま聞くと、「良心の呵責」というのはつくづく不思議な現象。
「良心」ってサットヴァじゃなくてラジャスなんかい〜! とつっこまずにいられない。
「良心」が聖なるものであるとすると、「良心が認めない」ということはあったにしても、「咎(とが)める」というのはしっくりこない。
それを、日本の良心は自分でやろうとする。「自分の中の天使と悪魔がたたかう」という感じはなんとなくわたしもわかるのですが、咎めたり呵責したりする神を自分のなかに見るのはなんだか妙です。「自己を制御する」役割を超えて、「良いほう」へ振れるように管理するのが良心の役割になっている。





疲れているときは、休みたい。でも休んでいると、良心が呵責したりする。
サトヴィック風味のラジャスが追いかけてくるって、かなりしんどい環境です。
「良いほうに振れてない=悪い」「良くない→呵責行き」という思考しかないのであれば、それもまた病理なのだと思います。
わたしは「まじめ」という言葉がこわい。「よきにはからえる」「よきにふるまえる」「誠意をアピールできる」という技術がない。




まえに生徒さんから「暇だからうつになるんでしょうか」という質問を受けたことがあるのですが、今日はその答えも兼ねています。
わたしは「良いほうに振れてないこと=悪い ではない」という状態を認めることができないことが、その原因ではないかと思っています。多様性の受容耐性が弱いために、ボーダーラインにくると思考停止してしまう。
職場でも地域社会でも家族でも、組織への帰属欲求というのは帰属しないと満たされないものですが、帰属先の多様性が受容できずに「けしからん点」に意識が向いてしまうと、これもまた苦しみの原因になります。帰属のしかたについての不満も同じことです。




バガヴァッド・ギーターというインドの聖典では、アルジュナさんという青年がこの感じ(良心の呵責のなかでの混乱)をうまく表現してくれています。
そういう視点で読むと、バガヴァッド・ギーターには「シュガー社員へのシュガーの与え方マニュアル」のようなおもしろさがあります。
それにしてもシュガー社員って、もう誰もいわないねぇ。あの造語には妙な違和感があったけど、なんだったんだろう。なつかC。