結論から言いましょう。スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学学位授与式でのスピーチに匹敵、いやそれにも勝る驚きの講義です。「こころ」の連載終了から3ヶ月後に学習院の生徒たちに向けて語られたものがテキスト化されていて、短いのですぐ読み終わります。青空文庫でもネット上のテキストが読めるので、ぜひ。夏目漱石ってトークもこんなにいけたのか! とびっくりする。ユーモアもあるし、設定を踏まえた構成がすごい。
題名の「個人主義」については最後のほうに
私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾が必要だと云って、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。
と。なんとなくマツコさん的なんだよなぁ。そこ紐づけるのはなんだが。
学習院の生徒に「これから権力を得るであろう、そしてそもそも金もあるのであろう君たち」という設定を明確にしたうえで
権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被せるとか、または他人をその方面に誘(おび)き寄せるとかいう点において、大変便宜な道具だと云わなければなりません。こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。
と、ズバリ。わたしは漱石先生の小説の中で描かれる「お金」についての記述がすごく好きなのですが、お金である程度までいけてしまうことについて言及するのではなく、お金のもつ作用について語ってる。そこの焦点の合わせかたに間違いがないところが好き。
タイトルの「個人主義」は「実践主義」といえる内容で、「自分の力と感覚で堀りあてたものだけが自分を救ってくれる」ということに気づくまでの自分史になっていて、かなり引き込まれます。
漱石先生は、「自分で掘りあてろ」というのですが、いまどきの先生はきっと言ってくれない(社会に言わせてもらえない)、こんなことをズバリと言ってくれる。
もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。
「生涯不愉快」「始終中腰」と、容赦ない。
さらに
私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠(なまこ)のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。
なまこのような精神! 「ああでもなくこうでもなく」ではなく、「ああでもありこうでもある」というところがなにげに鋭い。
英国留学後に行き詰まっていた頃のことを、自らのことも反省しつつ語るところが、小説の文体と似ていておもしろい。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。
悟りの前の反省は続きます。
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他(ひと)の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触ふれ散らかすのです。
とはいえ「自分の腑に落ちようが落ちまいが」ってことはしていなかったと思うんですけどね。これだけの文章を書く人が。
私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
ここは、「世界に共通な正直という徳義」という発言がひっかかりました。圧倒的な視野の開け方から見てちょっと意外な感じ感じもしたけど、たしかにこの時代は、そうだったのだろうなぁ。
私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。
「草枕」での那美さんや「こころ」の先生、Kの発言のルーツは、こういう思索から生まれたのだろうなぁ。インド的な要素は、ショーペンハウエルなどを通じて得ていたのだろうか。
著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、その時確かに握った自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました。
ぜんぜん失敗してないと思うけど、当時の文豪のなかではそう感じていたのかな。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(ふちょう)に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。
ここも鋭いなぁ。人によってどんなことを想起するか、周りの人にきいてみたいところだなぁ。
以下は、新聞に載るテキストへの批評に対するコメント。いまのネットもうこうなっている。
失礼ながら時代後れだとも思いました。封建時代の人間の団隊のようにも考えました。しかしそう考えた私はついに一種の淋しさを脱却する訳に行かなかったのです。
せつない! なんか胸がギュッとなるわ。
漱石先生は39歳で小説を書き始めています。それで、最終的には書くことによって救われたと。
久しぶりに、読んでいてやる気のわいてくるテキストに出会いました。