このブログは気軽に書いているものがほとんどですが、ときには幾重にもオブラートに包んで、包んで、もう一枚包んでおくか、という感じで書いているものもあります。理由はいろいろです。
なので、自らのことに置き換えて読んでくれた感想を見ると、うれしくなります。
「ヨガをとおして僕のなかのオトコと向き合う」
ヨガをするようになって感じたことが書かれています。
ご自身の経験をもとに「そうそう、僕が感じたのはこのこと」と、2007年に書いたトピックへの感想が綴られていました。
わりと奔放に書いていた頃の過去記事をこのような読み方をしてもらえて、わたしはうれしくなりました。
「被害妄想メガネ」をかけて情報を受け取る人が増えている昨今は、鮮やかな視点のブログがクローズしはじめて、いろいろつまらなくなっている。地味なヨガブログを書いているわたしですらも
「気づいてしまったけど、書かないほうがいいんだろうな」
と思うことが増えています。
見ず知らずの人の文章を読んで、自分のこころの中で起こったさざ波の形をすくって言葉にする。得た言葉を自分ごとにして発表する主体性が素敵、と思いました。
古代のリシたちは、自分の中に湧き起こった感情や欲望の「経験の交換」を口述でしていて、そういうのがスートラになっています。
他の幸福を喜び(慈) 不幸を憐れみ(悲)、他の有徳を欣び(喜) 不徳を捨てる(捨)態度を培うことによって、心は乱れなき清浄を保つ。
(ヨーガ・スートラ 1-33)
あたりまえだけど、これは自分のなかのかっこよくない心を見つめたから、できた節。
5世紀の人たちの足の引っ張り合いとか、今より露骨だったんじゃないかなーと思う。なんとなくだけど。
とりあえずガラスの仮面には負けないくらい、すごかったんだろーなーと思う。なんとなくだけど。
でもそういうことを、かっこつけずに開示して、修行して、話して、それが教義になる。
ひとさまの文章を読んで受けた感覚から、こんなことを思いました。