うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

森博嗣の道具箱 ― The Spirits of Tools 森博嗣 著


日経パソコン」というパソコン専門誌に「森博嗣のTOOL BOX」というタイトルで2003年から2年間で書かれたコラムをまとめたもの。
わたしのなかで、日本語で不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を語る人としてすぐに思い浮かぶのが森博嗣さんと叶恭子さんのお二人なのですが、これまで読んだ著作の中では格段にこの度合いが強い。
ちょっとむずかしい言葉を出しましたが、ここはヨガブログなので遠慮なく続けると、「ヴェーダンティックな人」というのはたくさんいます。そのなかでもアドヴァイタ・ヴェーダーンタな考え方をする人は、いっかい二元論の背景を踏まえたもの言いなので、一周してる。わたしはこの「一周してこういう考えになった」というのを読むのが好きです。森博嗣さんと叶恭子さんの文章はいつも偏りがちな思考を調えてくれる。
このコラム集はヨガのアーサナに通じる力学的なことが多く書かれていて、「これ三点倒立の説明のときにそのまま使えるじゃないか」という内容があったり、「ほんとうにむずかしいことは、どれだ」というあぶり出しの過程の文章にうなずくところが多かったです。

<デザインとは、必ずしも見えるものではない (2004年2月2日号)より>
僕的には、デザインとアートは正反対に位置する存在であって、両社は鬩(せめ)ぎ合いこそすれ、融合することはないものだと考えている。

(中略)


 考えてみたら、人間も同じである。能力は見えない。アートな奴か、デザインな奴か、使ってみないとわからない。ただ、その人の意気込みを、信じるしかないのである。

信じるしかない境地に至るまでには、やってみないとわからないんですよね。ジェリー・ロペスさんのサーフ・リアライゼーションにも通じる。



<沢山並んでいるだけで楽しくなるものってなあに? (2004年3月29日号)より>
僕は、テクノロジィに憧れる気持ちこそが、テクノロジィの最終的な目標だと考えている。だから、もし、みんなが合理的に考えるようになって、冷静に自分の使用範囲のものだけを選ぶようになったら、技術はもう終盤だと思えるのだ。

まさに「憧れ」なんですよね。なので幻想なんです。わたしは以前、中毒性をマネタイズしているような気がしてしまって、ITの仕事に少し距離を持とうとした時期があり、そのときにこういう考えに至ったことがあるのですが、それはわたしのなかで「憧れ」がなくなってしまっただけだった。憧れなければできないのであればそれは仕事ではなく「楽しみ」で、いままでどれだけ自分の中にある幻想に恵まれていたかということに気がついた。(次のコメントに続く)



<ナポレオンは、何故持ち帰らなかったのか (2004年4月12日号)より>
問題はメディアではない、コンテンツなのである。価値は常にコンテンツにある。変わるとすれば、生産性や携帯性であって、楽しさ、面白さ、あるいは、そこに含まれている情報の価値は不変だ。
 新しいメディアを扱っている多くの企業、そして人々は、そのことを忘れないでほしい。

著者さんがIT事業の人だったら、「スマホネイティブ」とはいわず、「テキストネイティブ」というだろうな。そしてこの認識はとても大切だと思う(と感じさせる指摘が実際2003年のコラムの中にあった)。



<擦れ合い火花を散らし、熱くなり形を変えて、ここまで来た (2004年6月7日号)より>
無駄なものを自身の内に抱えることが成熟であり、豊かさであり、そして、そういった豊かさに追い込まれた人間が、きっと絶望の末に「なにか新しいことをしなければ」と発想するのだと思う。でなければ、豊かになる意味がないではないか。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタの思想のやさしさみたいなものを日本語化すると、こういうことなのだと思う。



<同位置の二等辺三角形だけで構成された不思議な空間の中にいる (2005年5月23日)より>
 三角形は強い。3つの辺の長さが決まっていると、三角形は変形できない。四角ならば、平行四辺形になる自由さを持っているが、三角形はびくともしない。

「三点倒立は物理的に難しくないの。正三角形崩れなければ、この上ない安定感なの」といつも言っているのと同じ話ですよみなさん。



<合理化され最適化され柔軟性を失う、その洗練の次に来るもの(2005年6月27日号)より>
「最適化」とは柔軟性を失うことである。合理的になり洗練されるに従って、許容範囲は狭くなる。
 ただし、これはものは進歩するときのステップの1つであって、そのまま突き進むわけではない。

そう、そのまま突き進むわけではない。繰り返す。それらをまとめると「しなやか」としか言いようがない。ヨガではね。このコラムの続きに出てくる主張がまた、いい。



 規格を統一しろ、と主張しているのではない。その反対だ。規格が違っていても、なんとか使えてしまうようなアバウトさこそ、次世代のテクノロジィが目指すものではないだろうか。

法然さん的な大乗感。たどりつきたい気持ちを削がない設計にアバウトさは欠かせない。



<誰がネジを巻くのか、という観点からゼンマイについて (2005年7月25日号)より>
いうまでもなく、石油や原子力のエネルギィだって同じこと。地球や太陽が長い間かかって巻いたねじを、人間が一瞬で放とうとしているのである。

「天罰」という言葉を使わずに、こういう表現ができるなんて素敵。



<人の手が作るものの素晴らしさと完成させることで証明されるもの (最後のコラム)より>
人がものを作るときの最も大きなハードルとは、それを作る決心をすることだ。自分にそれが作れると信じることなのである。

「創造力と生命力と生命欲とモチベーション」のグラデーションの、左サイドを照らしてくれることば。



ヨーガは基本的にプラクティカルなことから考えられていった思想なので、このコラムの中に出てくる工作や力学の話はアーサナの修練に通じる結論が多かったです。わたしは工作はしないけど手芸はするので、「なんで手芸になると芸なんだよー」と思いながら読みました。




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