うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドと日本の悪人正機説


バガヴァッド・ギーター歎異抄も「悪人正機」を説いています。両方とも好きなわたしは、どっちをベースにして話すか迷うのもまた楽しみというくらい、この2冊が大好き(両方とも仲良く18章構成)。
親鸞(&唯円)の悪人正機は、もともと法然の問答にも書かれている思想の継承です。この日本とインドの教えの展開を見比べると実におもしろい。バガヴァッド・ギーターは上村先生の訳、歎異抄は梅原先生の訳で紹介します。


まずはインド版・悪人正機説
章節の順番は前後しますが、バガヴァッド・ギーター(以後B.G.)にはこんな節があります。

  • たとい極悪人であっても、ひたすら私を親愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなさるべきである。彼は正しく決意した人であるから。(9章30)
  • 仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるにしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。(4章36)

私=クリシュナですから、そこを阿弥陀仏にすれば歎異抄になりますが、同じことを言うにしても、なんというか、日本はねちっこい。


  • 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。(第三条)

(善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ行くのは当然ではないか、私はそう思いますが、世間の人は常にその反対のことをいいます。悪人ですら極楽へ行くことができる、まして善人は、極楽へ行くのは当然ではないかと。)

親鸞の倒置による強調に怨念が(笑)。当時の権威主義的な仏の道をボヤく、ものすごくパワーのある表現がバンバン登場する。後代まで語り継がれる有名なこのフレーズには、ものすごいコピーセンスを感じます。



先に親鸞に親しんだ人にとっては、「さすが宗教大国で哲学の国インド。悪人正機説もこんなに昔(紀元前3〜2世紀)からあったなんて!」という気分になる。それはそうなんですけどね、B.G.はさらにどんでん返しがある。

(さっきの9章30のあとの流れ)

  • 実に、私に帰依すれば、生れの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(実業家)でも、シュードラ(従僕)でも、最高の帰趨に達する(9章32)
  • いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙である信者たちはなおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。(9章33)

どっかーん。ズッコケー。ナンダヨー、ガッカリダヨー。超サラリーマンぽいー。
ここの「いわんや」は上村先生の仕込んだ深すぎるギャグなのか。
インド人からしてみたらこの流れは当然なのですが、「おお、B.G.にも悪人正機説がっ」という気分で読んでいた日本人は、ここでかなりガッカリできます。



しかしこのクリシュナの話の構成をあらためて読むと、わたしもいいかげんヨゴレたオトナですから、親鸞に対して、こうも思うわけです。
もし親鸞


「貧しい者も、学ぶことのない者も、阿弥陀仏の慈悲を受けられる。極楽浄土へいけるんです。
 だったら比叡山のみなさんは、もっとすごい極楽浄土へいけそうですね〜。さっすが〜。ひゅ〜ひゅ〜☆」


という話術を持っていたら……。



そんなの親鸞じゃないよね。ぜんぜんロックじゃない。源信さまが怒って出てきちゃう。
でもね、クリシュナのような「バラモンさんをおだてつつ、みんなの心をドーンと支える」というバランス感覚もすごいと思うんです。
どっちが目的を達成できているかというと、クリシュナかもしれません。
とはいえ、女犯の夢を見てしまう親鸞さん、まっすぐに物申してしまう不器用な親鸞さんが、わたしを含む日本のオッサンたちのハートをつかんでる度の濃さは、クリシュナのそれよりも強力なものでありましょう。



今日は、「ま、どっちもおもしろいんですよ」というお話。

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