うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ)中村元 訳


真理のことば(ダンマパダ)」と同じ本に収められています。
ダーナヴァルガは西暦150年ごろ(カニシカ王の頃と近いという記述より)に、ダルマトラータ(法救 Dharmatrata)が編纂したという伝説があるそうです。
ヨーガ行者という言葉が出てきたり(32章「修行僧」81句)、ヨーガ・スートラでも瞑想・悟りの段階の分解で何度も出てくるvitarka(微細な思考)という言葉が登場しています(31章「心」33句)。ダンマパダに比べ、他の教派に対する意識的なコメントが多くみられ、24章「広く説く」と33章「バラモン」はその感覚で読むとおもしろいです。


わたしは細かい読みどころをちまちま見ていくのが大好きですが、
それはさておき悩める人へは、この句がよいでしょう。

この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、悩みのうちにあって悩まない。
(23章「自己」22句)

悩みのうちにあって悩まないって、どういうこと?! という答えは、この本をしみじみちびちび読んでいると沁みてきます。



恋でお悩みの人には、この句がよいでしょう。

愛欲は愚かなる者どもを焼きつくす ── たいまつを放さない人の手を、たいまつが焼くように。
(2章「愛欲」4句)

解決にならない展開ですが(笑)、激しさと味わいが深く織り交ざった、ズキューンとくる喩え。
これは、手元に置いておきたい素敵なバイブル。




インド歴女っぽい読み方をすると、切り出しどころ、ツッコミどころが盛りだくさん。
29章は「ひと組みずつ」という章で、2句でひとつの構成なのですが、出だしの以下は興味深い。

太陽が昇らないあいだは蛍が輝いている。しかし太陽が昇ると、にわかに暗黒色となり、輝かない。
そのように、如来が世に現われ出ないあいだは、(仏教外の)思索者たちが照らしていた。しかし世の中が仏によって照らされると、思索者は輝かないし、その人の弟子も輝かない。

そこのインド人たち、仲良くしてー! 仏教側もそういうこと言うの、やめなさい(笑) という気分になります。




「絆」という言葉の登場場面もとても印象深いです。

  • 苦しみと苦しみの起る本(もと)を知る人は、どうして愛欲を楽しむであろうか? 思慮ある人は、世間における絆を棘(とげ)であると考えて、それを制しみちびくために修学すべし。(2章「愛欲」20句)
  • これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためにはこのほかに他の道は無い。この道を実践する人々は、瞑想を修して、悪魔の束縛の絆を捨て去るであろう。(12章「道」11句)

口あたりはやさしいけど、悪魔の束縛に変わりうる「絆」。わたしはあまりスッと使えない感覚の単語です。




「潜勢力」という言葉も強く印象に残りました。

たとえ樹を伐っても、もしも頑強な根を絶たなければ、樹がつねに再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力を摘出しないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。
(3章「愛執」16句)

潜在意識に勢力があって、その力を取り除くのだ、というのはすごい科学。




たくさんのなかから「人づきあい」の面で心に響いた句は以下でした。

  • 好きな人だからといってなじんではならない。ひとはそこで砕かれてしまう。清い信仰心の無い人を遠ざけて、清い信仰心のある人に近づく。(10章「信仰」16句)
  • 他人の過去を見るなかれ。他人のなしたこととなさなかったことを見るなかれ。ただ自分の(なしたこととなさなかったことについて)それが正しかったか正しくなかったかを、よく反省せよ。(18章「花」9句)
  • 怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。(20章「怒り」4句)
  • どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。(25章「友」11句)
  • (友となって)同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。同情してくれる愚者は、(悪いことを教えて)ひとを地獄にひきずり下す。(25章「友」21句)

ブッダは「ツルんで汚れるくらいなら独りで居ろ」というのがベースですからね。
章のまとまりとしては22章「学問」が心に響きます。メディアとの接し方への手引きのような章でした。




それとは打って変わって、「ど、どうしたの?」という感じがする句もありました。

岸に下りてゆく階段の整備されている河は楽しい。理法によってうち克った勝利者は楽しい。明らかな智慧を得ることは、つねに楽しい。「おれがいるのだ」という慢心を滅ぼすことは楽しい。
(30章「楽しみ」24句)

「あそこにガートができてうれしい〜」「おっといけね、慢心しちゃった☆反省(テヘ)。これもまた楽しい〜」というような、アッパーなかわいらしさが全開です。一体どうしたのでしょう。編者のドーシャがラリホ〜な感じだったんですかね。



以下は、ほかの思想と比較してみるときに興味深いので、メモ。

  • 村において、林において、快感や苦痛に触れられた人は、それを自分のせいにしてもならぬし、他人のせいにしてもならぬ。迷いの条件に依存して、触れられる事物が触れるのである。迷いの条件の無い人に、触れられる事物の触れることがどうしてできよう。(30章「楽しみ」51句)
  • この世は熱のような苦しみが生じている。個体を構成する(五つの)要素(=五蘊)はアートマンではない、と考える。ひとは「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、あり得ない。(32章「修行僧」33句)
  • (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の博学なバラモンとを滅ぼし、(主観的機官を客観的対象とあわせて十二の領域である)国士と(「喜び貪り」という)従臣とを滅ぼして、バラモンは汚れなくしておもむく。(33章「バラモン」61句)

はじめのは、サーンキヤ・ヨーガととても近いけど「迷いの条件」というのがおもしろい。
真ん中のは、シヴァ派のヨーガ古典とじっくり比較したい。
最後のは仏教の中で語られるヴェーダっぽい雰囲気が不思議。




感想はほとんどは「わたしがそれを読んでいる瞬間のドーシャ」のバランスによって成り立っています。
ふまじめだ! と言われても、真我自体はピュアなものですから、ふざけた感じがするのはわたしのせいではありません。ということでお願いします。