サンスクリット語を仏教ニュアンスで理解しているがために、哲学のヨーガを学ぶと混乱する、ということがよくあります。仏教のほうが性弱説・性悪説のうえに立っているような、そういう違い。
「サンカルパ」
ヨーガの練習のときは「決意」という感じでマニフェスト風味なのですが、仏教になると「煩悩 Ready Go!」みたいなニュアンスが出てくる。
感興のことば(ウダーナヴァルガ)
第二章「愛欲」 第一節
愛欲よ。わたしは汝の本(もと)を知っている。愛欲よ。汝は思いから生じる。わたしは汝のことを思わないであろう。そうすれば、わたしにとっては汝はもはや現れないであろう。
中村元先生の訳で、注釈にはこの「思い」のところに samkalpa とあり、
imagination(英語)の単語も添えられています(Chakravartiさん訳)。
サンカルパ自体は、良し悪しを問わず、「湧いたidea」という感じなんですね。
ただ、この仏典(ウダーナヴァルガ)の流れでは
- 愛欲は思いから生じ
- 欲情から憂いと恐れが生じ
- 快楽からも憂いと恐れが生じ……
ということで、あきらかに「悲しみの種」方面なんです。
そういうイメージでいるところに、ヨーガの練習では「サンカルパを抱いて(描いて)ください☆」とくるわけです。
これはどちらかというと、「前向きなマニフェスト」というようなニュアンスです。
なんというか、とってもアメリカンな雰囲気なわけです。
イエス、ウィー・キャンで、イエス、ユー・キャンな感じです。
ヨーガ用語のサンスクリット語辞書にある説明も
will, volition, positive resolve, purpose, aim, intention...... fancy, imagination
前向きだー、前向きだ。
さっきまで、「期待は絶望の母」というノリであったところに、こうくるわけです。
仏教って、暗いんですよね。いい意味で。
だから戦いを頑張って肯定しなくてもいい。
そこへポジティブなノリでヨーガのアレがくると、たまに混乱します。
混乱しないまま学べちゃうほうが、ヨーガは楽しいんだろうなぁとも思うのだけど、「ってゆーかクリシュナって結局ジャイアンじゃん」という感覚を忘れられない、ツッコミたい。
これがわたしの学ぶ道なのか。
とりあえずヨーガのときは
いちにぃサンカルパ♪
にぃにぃサンカルパ♪
サンカルパ♪
というノリでいたほうがいいっぽいです。
(このネタきっと地域を選ぶんだよねごめんね)
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