うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

一流の品格が身につく6つの物語 山崎武也 著


「品格」の文字がタイトルに含まれる本がたくさん出ていた頃のものかな。ここ最近、自分の興味対象の研究っぽい読書が多かったので、ちょっと社会性を取り戻すべく読みました。この本の前段として「一流の品格、三流の品格」という本があって、そのエッセンスを物語仕立てで展開した本なのだそうです。
この本を読んだら、日本の社会の閉塞感の傾向や、それを生む心の種、育てる風潮のようなものが見えてきた。
平たくいうと日本の社会、企業組織の中でうまくやっていくためのノウハウ本なのだけど、20代ではまだこれは読まないほうがいいんじゃないかと思ったりしました。いっぽうで、わたしのようにいい年をして空気を読むことが未熟な人間には、ためになることがたくさん書いてありました。
この本で示される品格の定義が「つつがなく生きていくこと」を下敷きにしているので、それは生命力あふれる生きかたかというと、そうではないこともあるし、それはクリエイティブではない。
でも年を重ねてくると、こういうことを身に着けるのも大切だと思うことがたくさんある。「おもしろいか」とか「ためになるか」とか「本質的か」などの、そういう基準ではない視点を持って読書できる人には、いろいろと発見のある本だと思います。


この本は三上さんという、企業で働く男性が社会で学んでいったことをストーリーとともに語り、そのなかにそこで学んだ教訓が示される、そんな展開です。
なにか思ったところがあった箇所を引用し、紹介しますね。

<46ページ 責任感 より>
責任のチェーンはつながっているが、途中を飛び越えてつながることはできない。
 企業などの組織における自分の役割や責任については、自分がチェーンのどの部分の輪に相当するかを、よく認識したうえで肝に銘じておかなけくてはならない。その点さえ間違えなかったら、組織を生かし自分自身も組織のなかで上手に振る舞える達人になるはずだ。

「組織の中で上手に振る舞う」ことと、「個人の能力を生かす」ことはどの分野でも多くの人が課題感じていると思う。一方で、サービスや商品にあった「組織のサイズ」というものもあって、そこは語られないことが多い。わたしは最近「中間フロー」をなるべく減らすとものごとはどう回っていくかということを考えているのだけど、人がひとりでなにかを回すのでなくなったらすぐ「組織」になる。なので、「組織で動く」ということと「サイズ感」への意識を常に持ってできることがあるのなら、そこに考える頭を集中して使うのがよいと思っています。
もっとも身近な単位でいうと、「家族」も組織。それに協力してくれる人も組織の一員。そういうふうに考えていくと、思う範囲も広がっていきます。


<54ページ 名前 より>
 名前はアイデンティティーの基本となるものであり、人格そのものである。それを間違ったのでは、その人に顔で墨で点を書き入れたり、皮膚の一部を剥ぎ取ったりするにも等しい行為というべきであろう。失礼このうえないことである。
(中略)
 人の名前は正確に覚えておいて、それに敬称をつけて呼ぶ。それが常にできるようになれば、礼儀正しい人として高い評価を受けることができる。そうすれば、人生をつつがなく送っていけるパスポートを身につけたようなものだ。

これは、ヨーガと反対のベクトルというか、すごく物質社会的な価値観のように思います。「人生をつつがなく送っていけるパスポート」とは、なるほどね、と思うのだけど、「生き物同士の生命力あふれるコンタクト」という点ではかえってここにエネルギーを使うのはもったいない。
先日友人が「わたしの友達の歯科医は、患者さんの名前を覚えられないけど、口の中をみたらわかると言っていた」という話から「わたしはダウンドッグかT字バランスしてもらったらシルエットで顔も浮かぶ」と言い、イタリア料理人は「僕も、オーダーを見たら顔が浮かぶ」と言っていた。ま、いいわけなんですけど、でも生き物っぽいコミュニケーションって、こういうことだと思うんですよね。
なので、たとえ名前を間違えたとしても、それ以外のところで「あなたのことを、わたしの脳みそのここで認識しているの」ということが示せればいいってことにしておきたい。してくれ。まあヨガは対象外だろうが。


<75ページ バランス より>
 悪いものは、わざわざ自分が退治したり矯正したりしなくても、自然淘汰のながれのなかで、よくなって生き残るか。そのまま滅んでいくかする。それが自然の理であり、自分自身もその自然のなかに存在する、一つの単位であるから、自然に任せるのが自然であろう、などと考える。

さっきの引用箇所と一転して、こういうくだりが出てくるのがおもしろい。


<132ページ 研究 より>
 自分自身に違和感があれば、それが気になって、こそこそとかキョロキョロとかするはめになる。
 その自信のなさが、人々に不審の念を与える。そこで人々も不安になって、周囲を見回すという悪循環がはじまるのである。
 自分が着慣れたものには抵抗がない。新しいものに対しては、早く自分のものにしようとする意気込みが必要だ。それが「身につく」ということである。

この「早く自分のものにしようとする意気込み」というのも、とてもよい示唆と思う。感じたときが、反映しどき、だからね。


<145ページ 品性 より>
『自慢は知恵の行き止まり』といわれているが、自慢をすれば、それ以上の進歩は望めないことを人々に公表しているようなものだ。どんなに社会的に高い地位にある人でも、自慢たらしいことをいったとたんに、世間の評価を落としてしまう。

これはとっても日本的。自慢話もあるけどそれでどんどん自分を盛り上げていってうわーっと明るい世界観をつくるのが上手な外国人事業主を見ると、自慢話も聞いていて気持ちのいいスパイスだったりする。「これで謙虚だったら人間味がなくてつまんない」という価値観ってないものなのかな。


<154ページ 適応力 より>
何か親切な行為に出ようとするときは、まず一息入れて、それが相手に対する押しつけになるのではないかとか、自分勝手な出しゃばりになるのではないかとか、まず考えることにしている。

これも背景に、「相手が親切と思ってしてくれたことは、迷惑でもありがとうというものだ」という前提があるように思います。これは、次に引用する部分と関連する。


<158ページ おもいやり より>
自分のエゴを完全に無視することがポイントだ。
 人のためと口でいったり心に思っていたりしても、常に自分の立場や対面のことも考えるのが、凡人の浅はかさであり愚かさである。
 気くばりというのは、手落ちのないように、また失敗しないようにと、あれこれ考えて気をつけること。結局は、自分のためにしているのである。したがって、そのときに自分のためという要素をゼロにするように努めてみれば、気くばりも本物であり一流である。

相手の反応が思いどおりのリアクションじゃなかったとしても、リアクションがなくてもよい前提でできることならいいんじゃないかと思うんです。
むかしは贈り物とお礼状の関係がすごく気持ちのよい文化としてあって、それはたぶん、ライフスタイルの変化と連動している。社会が豊かになっていくムードを共有している気持ちよさのようなものが、根底にあったのだと思います。だけど景気が悪くなったり人々の生活時間の差が大きくなってくると、土台から崩れていく。



「品格」よりも、「コミュニケーションのあり方」について考えるきっかけの多い一冊でした。
こういう、自分がものごとを考えるきっかけになってくれる本を読むのはいいもんだな、とも思いました。
処世術として「割り切る」のではなく、「これもひとつのアーサナ」というような感覚で社会に向き合っていく余裕のようなものが、生まれるか、生まれないか、生まれるかもしんない、生まれるんじゃないかな、まちょっと期待もしとけ。ぐぐぐ……。という、亭主関白の歌詞のような中途半端なこころの地殻変動が起きました。
(この感じ、ヤングはわからないよね、いつもごめんね)

一流の品格が身につく6つの物語
山崎 武也
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