うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

今だからこそ 歎異抄 ひろさちや 著


今だからこそ、というタイトルで2001年に出版された本なのですが、今でもなお、という内容です。
歎異抄のなかから10のフレーズを抜き出し、Q&A設定の形式で掘り下げていく説明が見事。長い説明の流れあってのすばらしさなので、抜粋だとそこが伝わらないのですが、いくつかメモしておきたいと思った箇所を紹介します。

<21ページ Q:浄土とはどういうところなのですか? いろいろなイメージで語られていて、とても混乱してしまいます。 への回答文章の一部より>
(先にウパニシャッドのネーティ、ネーティ式な瞑想方法に触れたあと)
そういう否定形によって表現された浄土の世界というのは、哲学的訓練を積んでいる人には理解してもらえるのですが、訓練を積んでいない一般庶民にはなかなかそのイメージがつかめません。
 では、そういう人に浄土の世界を伝えるためには、結局、わたしたちが理解できるようなこの世の中のイメージで表現するよりほか方法がないわけですね。そして、そういう表現方法をとったのが『阿弥陀経』などの仏典です。
 ところがわたしたちが住むこの世界というのは、「無常」の世界です。その時代や地域ごとに常にその価値観が変化してしまいます。
 ですから『阿弥陀経』が描いた浄土の世界というのは、当時のインドで美しいと想像されていた世界が描かれているのですが、これが日本人の美的感性には合わないのです。そうすると、極楽浄土というのは案外つまらない、ということになってしまうのです。

わたしははじめて阿弥陀経を読んだとき、ゴダイゴガンダーラを想起しましたよ。



<26ページ Q:信心さえすれば浄土に往生するといいますが、信じれば救われるということですか? への回答文章の一部より>
 英語に「God knows that」という構文があります。God knows は「神のみぞ知りたもう」という意味ですが、構文になると「……かどうかわからない」と訳します。英語の文書うでは「あした雨が降るかどうかわからない」というようなときに使うのですが、つまりこの構文には「神が知っておられることは人間にはわからない」という意味がその背景にあるのです。
 信仰というものを考えるとき、このことはとても大切です。

「信じる」より「感じる」のほうが正しいんだろうな。「桜まだ咲かないね…と思っていたら急に明日には咲きそうね」というのと似ている。



<85ページ Q:キリスト教は万人への愛をうたいますが、親鸞聖人の愛とはどういうものですか? への回答文章の一部より>
いまの日本の社会というのは、愛というのはそういう汚いものである、という認識がありません。愛の汚さというものを、人びとが言わなくなったのです。
 いや、それどころか愛のすばらしさを強調する知識人が増えているんです。知識人だけでなくお坊さんまでが、愛をすばらしいものだ、と語るようになっています。
阿弥陀仏の慈悲は、親が子どもを愛する無私の愛と同じように気高いものである」
そんな説法をするお坊さんがいます。
 でもわたしは、そういう説明は、仏教を否定した説明だろうと思うのです。


(中略。略すとあとの文章が極端に聞こえたりしそうですが、この部分が気になる人は本自体を読んだほうがよいので略します。)


自分の言うことを聞く限りではかわいがるけれども、そうでなくなると、たちまち虐待の対象になるのです。
 愛の本質というのは、そういうものなのです。
 仏教者なら、人間の愛なんて汚いものなんだ、そんな愛とほとけの慈悲とはまったく違ったものであるということをまず力説すべきだと思うのです。

わたしも、お坊さんが human being と love を一緒くたにして話していたら、思わず「梵と煩悩は分けてくれ」と思います。ヨーガも心理学的な面では仏教にかなり近いので、同じことを思っています。



<97ページ Q:なぜ親鸞聖人は先祖供養を否定しておられるのですか? への回答文章の一部より>
いまわたしたちが仏教行事だと考えて仏壇の前で拝んでいるご先祖の位牌というのは、儒教神道と仏教がごちゃ混ぜになったものです。かつての神仏習合時代には、まだ仏教と神道の役割分担が明確だったのですが、いま日本で行われている位牌を中心とした仏壇での行事は、神道でもなく、儒教でもなく、仏教でもないという、奇妙きてれつなものになってしまっているのです。
 しかも、その先祖供養を、仏教が追善供養として位置づけてしまい、すでに親鸞聖人時代には神仏習合のなかで行われていたのです。

お墓に「○○家の」と記す発想のない思想の背景ですが、儒教との繋がりはこの本の説明がすごくわかりやすかった。



<169ページ Q:仏教的な生活を送るためには、なにから始めればいいのですか? への回答文章の一部より>
阿弥陀さまの語源の説明で)
アミタ」は「ア」と「ミタ」の合成語で、「ミタ」というのが英語の「メーター」の原形で「はかる」という意味なんですね。そして「ア」は否定形ですから「アミタ」というのは「はかれない」という意味になるのです。
「はかれない」ものは同時に「はからない」ものでありますから、また阿弥陀さまというのは「はかれない」存在であり、同時に「はからない」存在なのです。
 さきほど、親鸞聖人がいう「無義をもって義とす」の「無義」というのは、「はからない」ことがその意味である、といいました。
 いみじくも「無義」という言葉は阿弥陀仏そのものをさした言葉なのです。

なんというか、うっとりするんですよね、この先生の説明は。




一編上人が詠んだ「称うれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏の声ぞ残れり」という歌に禅師の法灯国師がダメだしをし、「称うれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」となったという話も箇所(131ページ)もすばらしいエピソード引用で、「ほとけに溶け合う」ということの説明を読んでいるほうが気持ちよくなってしまいました。
これは「させていただく」というへりくだり表現の頻出で甘えとリスクヘッジが丸出しな「サービス業の過剰な敬語の違和感」と同じ話です。




また、148ページで、輪廻の説明を以下のようにされていました。ここは長いので整理して箇条書きにします。

  • 小さな石にひもをつけてぐるぐる回している状態を考えてください。
  • これが回るのは、地球の引力で引っ張られている。
  • 仏教では、ひもで引っ張られているから、石は自由になれないと考えた。
  • その引っ張る力こそ、執着心。
  • 欲望のもとにぐるぐる回りながら生まれ変わり、死に変わりしている。
  • このひもを断ち切って自由になろう。それが、「解脱」。解脱した彼方を「涅槃」と呼んでいる。

こういう説明を、もっと早く聞きたかった!




このほか、善悪を定義するのは人間がやることである、ということを淡々と紐解いていくくだりや、ヨブ記を引用しての「悪魔の誘惑」説明、イスラームの引用もあり、親鸞の思想のとてもコアな部分を鋭くわかりやすく解説されています。
「自分はエゴが強い」と思って悩んでいる人や、マス情報社会にグッタリしている人におすすめです。