うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

パタンジャリ・世親・野口晴哉と「潜在意識」

なぜこの三人? と言われたら「なりゆきでつながりました」としか言いようがないのですが、きょうは業と潜在意識・潜在記憶のはなしです。
ヨーガを学んでいくと、仏教と似たところで混乱します。「輪廻思想」や「カルマの肯定のしかた」の違いを見はじめるとドツボにハマって疲れます。
そんなときは、「潜在意識の定義」と「それによって発生する煩悩への対処法」の考え方がどうなのか、という視点で整理していくと理解しやすくなります。
もっと言うと、煩悩=悪魔 としちゃったほうがわかりやすい。



今日は先に、三者の思想を以下のように強引に要約したうえで、続きを書きます。

  • パタンジャリ(サーンキャ・ベース):悪魔は物理的にプルシャとプラクリティが出会ったときに発生する仕組みになっていますので、とにかく練習してください。常に清浄な状態を目指し、あなた自身を透明化してください。
  • 世親(ヴァスバンドゥ):「アーラヤ識」にただ居ただけのものを「思量」がつかまえたものが悪魔になってます。いずれもあなたの中にあります。修行しましょう。
  • 野口晴哉(上記が混ざってる):絵の具の原色のように、脈々と受け継がれた元素をみなさんが持っています。うまく薄めながら調整して、快適に生きていってください。

ヨーガの古典を読んでいると samskara, laya, vasana というサンスクリット語がよく出てきます。これら三つの言葉はばっくりまとめて「記憶と経験のブレンドをいいたいときに使う、カルマの手前にある機能や状態」というのがわたしなりの解釈です。感覚的に以下のようなグラデーションになっています。

  • samskaraはちょっとカルマに近い。いつかの自分がつかまえたものが出てきちゃったという感じで、「いつかの自分」がいまの自分から離れた感覚。ちょっと他責感がある。
  • layaは単に機能っぽく、あまり生命の輪廻に関係なく使われる。浄化プロセスの説明時に便利っぽい。
  • vasanaはその中間なんだけど「記憶」の要素が強くて、「いつか自分がつかまえたもの」という責任感が伴う。

ヨーガ・スートラは4冊あった書が5世紀にまとめられたものらしいので、正直ぜんぶパタンジャリってわけじゃないよねという書物ではありますが、「パタンジャリは〜」という書き方をしておきます。


(以下、佐保田先生の「解説・ヨーガ・スートラ」より)

四・七
ヨーギーの業は白くも黒くもない。その他の人々の業は三様である。

ヨーギーというのはここでの使い方ではただの行者ではなく、かなり浄化済みの人なので置いておくとして、本題はそのあとです。
「その他の人々の業は三様である」。ここが、もろ野口晴哉さんの思想。業のもとの要素を「絵の具の原色」に喩えています。



で、その解説をパタンジャリはこう続けています。

四・八
生類がこれまで輪廻転生してきた生涯のあいだに積み重ねられた潜在記憶のなかで、特定の業報に適合するものだけが現生に現れるのである。

「でたっ、サーンキャ」という箇所。ヨーガ・スートラのなかでもここからの展開は、さらに、格段にクールです。

四・九
これらの潜在記憶は、その成立した時と発現した時との間が、多くの生涯、場所、時によってへだてられているにもかかわらず、その間に連続性があるとされるのは、再現された記憶とそれの行との間には同一性があるからである。

科学者のようであります。

四・一○
潜在記憶が無始であるのは、生への愛着がつねに存在しているからである。


四・一一
潜在意識はその原因・結果・依体・対象によって支えられているので、これらが無くなれば潜在記憶も無くなる。

佐保田先生の解説を箇条書きで、すこし段階づけして要約すると

  • 潜在記憶の始まりを探しても果てることがないのは、生への愛着というものが耐えることなく存在しているから。
  • 言いかえると「煩悩のなかの生命欲」が常住不断に存続してきたから。
  • 上記の思想は仏教にもあり、四諦のなかの集諦では渇愛(タンハー)が苦の原因としてあげられている。
  • これに終止符を打つためには四・一一で、「原因・結果・依体・対象」の四つを滅ぼすのだ、としている。
  • 「原因」は「無明」。煩悩は無明に根づいているから。
  • 「結果」というのは現実の経験的意識、起信論などでいう「念」。
  • 「依体」のよっかかりどころの本体になるのはチッタ。
  • 「対象」は経験が生ずる手がかりとなる対象。

という説明がされていて、チッタは心とされていますが、まあチッタはチッタですね「反応ちゃん」という感じの子です。さらに話をサーンキャ内でシンプルにすると、「経験が生ずるきっかけ」はプラクリティということになるでしょう。



ここで関連付けて学びやすい「仏教唯識」についても学んでおきましょう。(この流れがよいのだー)
「はじめてのインド哲学 立川武蔵 著」のなかに、よい説明があったので引用します。

<「世界とは自己である」より>
 世親はその著『三十頌』の中で、「認識の展開」(識転変)という概念を、彼の唯識思想の概念としてもちいている。「展開」(パリナーマ)は、サーンキャ哲学においては根本物質(原質)が現象世界へと自己展開することを意味した。世親は世界を根本物質の展開とはとらえずに、認識の展開ととらえたのである。

(中略:アーラヤ識の説明までスキップします)

「アーラヤ」という語は、蔵、場を意味する。ちなみに「ヒマーラヤ」(ヒマ・アーラヤ)とは、「ヒマ」(雪)の「アーラヤ」(場)のことである。一切のもの(諸法)が結果の状態としてこのアーラヤ識に蔵せられ、またこの第八認識が(ほかに七つあるのでこういう流れで説明されている)原因の状態として一切のものの中に蔵せられている、と考えられる。このようにアーラヤ識は、他のすべての認識のターミナルとなる認識である。

すこし噛み砕きます。
根本物質が磁石に吸いよせられるようなはたらき、料理の味やレシピのように、理科の実験ぽい見かたで心のはたらきを解釈するのがサーンキャだとします。それに対して仏教唯識では「"認識" の展開」ととらえていて、主語があるというか、そこに料理人の心の存在があるので、責任感がある。
サーンキャって、極端にいうと「だって成分が勝手に転変したんだもーん」というような無責任な雰囲気があるんですね。料理してるのはおまえだろー、とつっこみたくなるような。
仏教唯識のほうはそうではなく、格納庫としての第八認識・アーラヤ識というのがあって、第七認識の「思量」というものがそれを認識して、(苦しみを)自分で自分のものにしたんだよ、という責任感がある。
サーンキャではそのつながりがはっきり語られない「プルシャとプラクリティのくっつきどころ」が、唯識では第七と第八だよ(7.5ってことか)、と明言されている。




ヨーガ・スートラは、基本的にいろいろ説明しつつ「だから修行しましょう」というオチに向かっていく芸風で、なかでも第4章は特にサーンキャ色が濃い。
野口先生の教えも流れは一緒で、「だから愉気しましょう」というオチに向かっていくような、パタンジャリに似たパターンを感じます。
わたしはヨーガ・スートラのこの部分の「パタンジャリの中の人」がけっこう好きです。「これ以上の分解は、仏教にまかせるわー」という潔さすら感じられる。かなり性格の明るい、すてきな人がまとめたんじゃないかと思うんです。
実際この部分は成立が最も後とされているので、推定5世紀。世親は3−4世紀。ちょうどこの部分のパタンジャリの中の人が「そこ唯識でいいじゃーん」といいたくなってもおかしくない時代なんですね。
実際、仏教サイドから見ても「もちつもたれつ」な展開になっています。
同じく「はじめてのインド哲学 立川武蔵 著」から引用します。

<「アーラヤ識の特質」より>
 このように唯識哲学は、一人の固体の認識からとらえられた世界 ── 自己空間と自己時間の世界 ── が、無意識の次元をも含んですべて認識であるという。その認識の内容・表象がすべて止滅したとき、かたちや表象作用をもたない認識作用そのものが残り、その表象を伴わない認識は、一種のヨーガによって清められ、やがて智恵となる。
この智恵こそ、唯識哲学の求めるものだ。唯識学派は「ヨーガ・アーチャーラ派」(瑜伽行派)とも呼ばれた。「アーチャーラ」とは行、実践を意味する。このように、唯識哲学は世界構造に関する理論であるばかりでなく、心作用を浄化して智恵へと昇華させるヨーガの行法に関する理論でもある。

以下、上記部分から想起する擬人化妄想です。ヴァスバンドゥ=世親、インド名で書きます。


ヴァスバンドゥ唯識:おー、パタンジャリ、元気? 最近どうよ。
パタンジャリ(ヨーガ):僕はボチボチですけど、先輩、えらい疲れた顔してますね。
ヴァスバンドゥ唯識:そう見える? いやさ、人が悩む理由とそれを克服するための修行を両方教えるので忙しくてさ。
パタンジャリ(ヨーガ):だったら僕が練習をじっと日々続けることの重要性を説きますんで、先輩は得意な理論分解のほうに専念してくださいよ。
ヴァスバンドゥ唯識:まぢ? いいの? たすかるー。じゃ、来週からよろしくー。
パタンジャリ(ヨーガ):了解っスー。


というような役割分担が見えてくる。
のだけど、こういう「いいバランス」というのは長く続かないというのが世の常のようで……


(先の「はじめてのインド哲学 立川武蔵 著」より)

 アーラヤ識の特質に関しては、唯識学派の中でもさまざまな理解が生まれた。世親の哲学にあっては、アーラヤ識は、そこからもろもろの他の認識(識)が生まれてくる源泉を意味するものではない。しかし、護法(六世紀)の『成唯識論』(玄奘訳)では、アーラヤ識から主観(見分)と客観(相分)が生まれてくると考えられている。つまり護法の唯識思想では、アーラヤ識の展開によって世界が成立するのであり、護法唯識とサーンキャ哲学との距離は世親との距離よりも近い。

ここでまたサーンキャに寄っていくというのが残念かつ面白い。せっかくヨーガと唯識で分業して、ヴァスバンドゥ(世親)がいい感じで内省プロセスを形成したのにー! と(笑)。
たぶんここはサーンキャにもがっちりした人物が必要だったんですよね。「えー、その角度からこっちに来んの? まぢで?」という流れだもんなぁ。



ヨーガと仏教の接点について、少しは感じがつかめましたでしょうか。
ヨーガ・スートラを読むときは「この章のパタンジャリの中の人は、仏教思想をどう位置づけていたか」というような感覚で読むと理解しやすくなります。
「詠まれたものをよむ」ときはまったく意識する必要はありません。(ヨーガ・スートラはそういうタイプの書とされているので)



<参考>本日の引用図書

解説ヨーガ・スートラ
佐保田 鶴治
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はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)
立川 武蔵
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