うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

現代人の身体動作特性を見るときに気にしていること

体癖研究
野口晴哉氏の「体癖」、長谷川光洋氏の「ボディ・メカニック(人体力学)」(=亀井進氏の身体均整法)にある12種類の身体分類を照らし合わせながら学んでいくなかで、自分なりにいまの時代を生きている人を見るときに加味していることがある。
昭和30年代と今では、人が身体を使う環境がだいぶ変わっている。
日々の生活のなかで自分の身体の使い方や人の動きを見るとき、それぞれの持っている社会生活環境や背景が頭のなかに浮かんできて、紐付けたり、また解いてみたりする。
先人の説を読むときには、以下のことをプラスしたりマイナスしたりして見ています。


■情報でモノを食べる/食べ物の多様化
これは、説明不要ですね。


■身体エクササイズの多様化と日常化
ゲームと同じような浸透で、ちょっとずついろいろやってみたり、どっぷり依存もできる趣味として確立している。堂々と人に言えるし、やれる。


■仕事の職種の多様化。作業の機械化
昔の散髪屋さんと今の美容師さんでは、使う薬品や機械、腰の使い方がずいぶんと違うだろう。


■視覚メディアの多様化
あこがれの対象を映像で見る機会が圧倒的に増えている。外国人もいっぱい見られる。
人は無意識のうちに身近な人やあこがれの人の身体動作、しぐさ、ことばなどから影響を受けるから、昔よりもここは複雑・多様化している。


■デジタル機器の存在。ケータイやパソコン
【身体面】とくに目と指の使い方が圧倒的に変わっている。


【意識面:1】
「ログを残す」頻度や方法が変わった。昔、おばあちゃんがこれは記録しようと思うことがあったときに「帳面、帳面」といってチラシを探して、その裏に書いていた。この一連の意識や思考の過程がいまの時代ではぜんぜん違っている。
「大切な情報」の認定ハードルはぼやけてきているし、ログを残す目的が「発信」だったり「リスクヘッジ」だったりして、本能的に「大切なこと」を認定する思考とは意識の使い方が違う場面が多い。


【意識面:2】
調べものをしやすくなったり情報が増えたことで、「知った気になれる機会」が増えた。「これは1種か2種だな」とヤマをかけないように気をつけなければならない、という落とし穴も増えた。
(ちなみに「脳ブーム」や「スピリチュアル・ブーム」も、「そういうことへの関心」をわかりやすくしてくれている)



そしてさらに、加えて見ているものがある。

■表現やボキャブラリー
影響を受けたものが蓄積して、経験による裏づけを経て変換されて出てくるものなので、「影響を受ける」対象まで遡って想像する。その「機会」が文字になって、増えた。


■コミュニケーションの「場」の多様化と、その使い分け技術の格差拡大
人と会う場やそのシチュエーションがリアルだったりネットワーク経由だったりするうえに、インターネット上では「集まる場」で使うメディアがもっている機能理解度と意識の違いが、「わかりやすくも」「わかりにくくも」あらわれる。
いわゆる「空気を読む」だけでなく、「機能やポピュラーな使われ方の認識(デジタル・リテラシー)」、さらには「他のメディアとの使い分けも踏まえた理解(想像範囲)」など、とても複雑だ。場と背景のヨミの勘、紐付けセンスのようなものがあらわれる。「脳内デジタル曼荼羅力」とでもいうのかな。
そして、理解度に関係なく乗りこなせる人も、まれにいたりする。



これらに、さらに「世代」「地域」による意識の掛け算があるのだけど、先人が研究から導き出した法則を見る上で、これまでに書いたようなことをプラスしたりマイナスしたりして見ている。
ばっくりとした体躯の特徴は、あまり見ない。あてにならないことが多い。そのくらい、この50年で身体を使う・育てる・衰えさせる環境が変化したのだろう。



ちなみに、野口先生の「体癖」(本はそのうち紹介します)のなかに、こんな記述があります。

 三種は台所が大好きです。(中略)いくつになっても、食べ物を貰えば嬉しい。
 食べ物以外の物では嬉しくない。食べ物もお菓子のような自分が手を加える余地の無いものより、鰹節とか砂糖とかいう方が喜びます。だから鰹節や砂糖や缶詰などを沢山くれる人は、そういう左右重心の人がとても多い。自分が嬉しいからそうするのです。私のところでは盆や暮れになると、広い部屋に一杯になる位に貰うが、それをいちいち確かめるのは、その贈物をくれる人の体癖の研究なのです。この人は何種、この人は何種と分けると、あける前に中味が判る。これは楽しみなことです。みなさんもやってみると面白いですよ。
 三種、四種の人に包装させると非常に折り目のきちんとしたことをやる。香典袋なども大きな袋で、きちんと書いて入れてくる。だから三種だなと思う。大きいから香典が多いなとは思わないで「あッ三種だな」と思うと大抵は当る。
 小さなクシャクシャな茶色の封筒か何かにお香典と書いてひょいと置いていったが、クシャクシャの封筒の中に十万とか五百万とか入っていたならばそれは九種だなとそう思っていい。立派そうな包みにそれに応じた額が入っていたならば、これは上下だなと思ってもいい。それが台にでも乗って、婚礼札の御進物の時のような具合に立派な時には五種だなと思っても間違いではないし、みんなそういう感受性があるのです。

野口先生の時代ならではの「体癖のみどころ」ですね。「みなさんもやってみると面白いですよ」って(笑)。
今は贈り物や包装の文化も当時とはずいぶん変わってきている。そのかわりに、あらたな「見どころ」がある。


ひたすらにインプットするだけじゃなく、いまどきのチューニングが必要なんですね。