うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

投影された宇宙 マイケル・タルボット 著(前半)

全部書くと「投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待」という長いタイトルの本です。
TeruSunのブログで紹介されていたのを読んで、即買いでした。ヨギにも面白いと思うって紹介してくれていたのだけど、面白いにしても、それがフューチャリング「スリ・ユクテスワ」なんですよ!
わたしはスリ・ユクテスワさまの数少ない言葉で語られる、めちゃくちゃロジカルな生命の教えが大好きなんです。こう、例えはいきなり日常的なものに置き換えますが「日本人はもともと農耕民族だから、マラソンは他の民族より向いてるでしょうな。競争すればね」みたいなノリ。ものすごい簡潔。科学的根拠とか添えてないのに、めちゃくちゃ「おっと、そういえばそうですか。ですよね」って納得しちゃう。


そんなこんなで、わたしにとっては、なじみの天ぷら屋で「わたしの好きそうなインド人とか師匠系の人、全部乗せでお願いします」って言ったら出てきた天丼のような、そんな本です。
どんだけ載ってるかというとですね・・・


▼以下、そらで思いつく人を羅列してみます。(関連書籍の日記にリンク)
スリ・ユクテスワさん&弟子のヨガナンダさん、シュリー・オーロビンドさん、カルロス・カスタネダさんと師匠のドン・ファンさん、レイム・ディアー翁さん、そしてそして……ミラレパたん! あと、バッハさんと見分けがつかないライプニッツさんも。


ほかにもインド系、仏教系の人は何人もおなじみの人が。




どんな本かというと、本筋はアインシュタインの弟子で量子物理学者のデヴィッド・ボームさんとアメリカの神経生理学者カール・プリブラムさんが、それぞれ全く異なる方向から進んできて同じ結論に達したという事実を軸に、そこからさらにカバラー、ヨーガ、ヤキ・インディアン、チベット仏教、インド神秘思想、そしてUFO談にまで波及して展開していきます。寄り道しまくり。


ボリュームのある本なので、第一部「驚くべき世界観の登場」、第二部「心と身体」までを紹介します。第三部の「時間と空間」は後日に分けます。
ではでは、いきまーす。

<14ページ 思い出す能力、忘れる能力 より>
思い出す能力とは、このように(ホログラフィック・フィルムに光をあて、いろいろな方向に傾けると記録されている画像が現れては消えていくこと)、ある角度でフィルムにレーザー光線を当てることによって特定の画像を呼び出すのに似ているのではないかと考えられている。同様に、何かが思い出せないというのは、いろいろな光線を複数画像のフィルムに当ててはいるものの、求めている画像や記憶を呼び出すのに必要な、正しい角度を見つけられないでいる状態にあたるのかもしれない。

先日、不思議なことがありました。「今度は愛妻家」という映画を観たら、普段はほとんど夢自体を見ないわたしが、結婚している夢を見たんです。映画の中で「わたしも同じことしたなぁ」というシーンがあったせいだと思うのですが、なにか「角度」が発生したんでしょうね。
そのほかにも「えーっと、あれ、ほら、あれなんだっけ?」となった後に思い出す過程で頭の中で起きていることも、確かに角度探し。わたしは、「みんなが思い出せなかったアレ」を思い出すのがけっこう得意です。


<41ページ 量子ポテンシャルと「非局在性」 より>
古典的な科学は、あるシステム全体の状態を、ただ単にその各部分の相互作用の結果として考えるのが常であった。しかし、量子ポテンシャルの考え方はこの観点を根底から覆し、各部分の動きとは、実は全体が決めているものであることを示している。これは、素粒子が別々の「もの」ではなく、分割不可能なシステムの一部であるというボーアの主張をさらに一歩進めただけでなく、ある意味では全体性こそが部分よりも優先する一時的な現実である、と示唆しているのである。
 またこれは、プラズマ(および超電導などの特殊な状態)にある電子が、どうして相互結合性をもつ全体として振る舞うのかも説明できる。ボームが言うように「そのような電子がバラバラに散乱していないのは、量子ポテンシャルの作用を通じてシステム全体がまとまった動きをしているからであり、その動きは、秩序のない群衆というよりは、バレエにたとえることができる」。さらに続けて彼は述べる。「このような、量子的全体性ともいうべき特性をもつ活動は、機械の部品を組み立てたときに得られるものというよりも、生き物の中で機能している各部分がまとまってつくりだす一体性に近い」。

バレエやダンスへの例えは「タオ自然学」にも頻繁に出てきました。そして、ここに出てくるボーア(ニールス・ボーア)さんは、以前紹介したなだいなださんの「人間、この非人間的なもの」にも登場しています。「われわれは、生かされている」というヨガ的視点での発言が印象に残っています。


<45ページ ホログラムの登場 より>
 いつものようにボームは、押し黙る群衆の中にあって、王様が裸であると勇敢にもはっきり口にするという、変わらぬ役割を淡々と受けいれていた。何年かのちのインタビューで、彼はその勇気を支えている哲学をひとことでこう述べている。「長い目で見れば、錯覚にしがみついているほうが事実に直面するよりはるかに危険なことなのです」。

インド的な言葉で言うと、「マーヤ」。やっぱりバガヴァッド・ギーターはすごい。


<52ページ あらゆるものは分割不可能な全体である より>
 世界を断片に分け、すべてのものの間にあるダイナミックな相互結合性を無視するという、人類にほぼ共通する傾向にこそ、科学にかぎらず私たちの生活や社会が抱える問題の原因があるというのがボームの考えだ。たとえば私たちは、地球全体に影響をおよぼすことなくその貴重な一部分を取り出せると思っている。あるいは、身体全体のことを考えずに、ある一部分だけを治療することができると思っている。犯罪、貧困、麻薬中毒といったさまざまな社会問題も、社会全体の問題を考えることなしに対処できると思っている。その著作の中にボームは、世界を断片に分けるという現在のやり方は、うまくいかないどころか、私たちを絶滅に導いてしまう可能性さえあると強く主張しているのである。

「身体全体のことを考えずに、ある一部分だけを治療することができると思っている」ことへの警告は非常にヨガ的。ボームさんも、沖モード。


<53ページ 意識は目に見えない精妙なかたちの物質 より>
意識と物質が相互作用をおよぼしあっていると言っても意味がないとボームは考える。ある意味で、観察者は観察の対象そのものでもある。(中略)ボームはこう語る。「活動的な形態をもつ能力というのが最大の意識の特徴であり、この意識状のものはすでに電子の中に存在しているのである」。
 これと同じように、宇宙を生きているものと生きていないものに分けることにも意味がないとボームは考える。生命をもつものも、もたないものも、不可分なかたちで絡み合っており、生命もまた、宇宙の全体性のあらゆるところに包み込まれているのである。岩でさえもある意味では生きている、とボームは言う。なぜなら、生命と知性は、すべての物質のみならず、「エネルギー」「空間」「時間」「宇宙全体が織りなす現実」、そして私たちがホロムーヴメントから抽象的に取り出し、別々のものだと誤解しているその他一切の中にも存在しているからである。

「私たちがホロムーヴメントから抽象的に取り出しているもの」という感覚は、阿字観から学ぶことと似ている。阿字観瞑想は、やってみると具体的な映像を刷り込まれてしまった私たちには難しいものであるのだけど(Google Earthのせいで!)、このような感覚は「ネティ、ネティ」な瞑想よりも、自分が分子化する感覚が得やすいと思います。


<59ページ プロブラムとボーム より>
 プリブラムとボームの理論を合わせて考えてみると、そこには深遠な新しい世界観が見えてくる。私たちの脳は、つきつめてしまえば他の次元 ── 時間と空間を超えた深いレベルに存在する秩序 ── から投影される波動を解釈し、客観的現実なるものを数学的に構築しているのである。すなわち、脳はホログラフィックな宇宙に包み込まれたひとつのホログラムなのだ。

「解釈」しちゃってるわけなんです。なので、「状態がいい(クリヤー)」を目指すさまざまな方法を、昔のインドの暇な人たち(←うちのインド人師匠の表現)は、ヨーガの道を探求した。ってことなんだろうな。


<65ページ ホログラフィック・モデルと心理学 より>
 ホログラフィック・モデルが大きな影響を与えてきた分野に心理学がある。これは別に驚くには価しない。ボームも指摘したように、意識それ自体が、彼の言う「不可分で、流れるような動き」の完璧な例を提供してくれているからだ。私たちの意識の流れ、満ち引きは、正確に定義することこそむずかしいものの、思考やアイデアがあふれ出てくる源である深層の根本的な現実として見ることができる。そして、これらの思考やアイデアも、流れる川にできるさざ波や大小の渦巻に似ていないこともなく、流れの中の渦巻と同じように、何度も出てきたり、比較的安定して続くものもあれば、できたと思った瞬間に消えてしまうはかないものもある。

さざなみぃ〜 のように〜♪ です。(愛のさざなみ 島倉千代子


<86ページ 思考の渦巻と多重人格 より>
 自分自身のもつ固まりきった思考の渦巻を認識したければ、自分が人とどういう会話を交わすか観察してみることをシェインバーグはすすめる。固定化された信念をもつ人間が話をすると、自分の意見を信奉し弁護することで自らを正当化しようとする。新しい情報に接しても、その結果として価値観が変わることはめったになく、会話を通じて本当の意味での交流を深めることにはほとんど関心を示さない。意識の流動的な性質に心を開いている人は、このような思考の渦巻がもたらす人間関係の固定化を認識しようとする気がある。ただ各人の意見を単調な祈祷の文句のようにいつまでも繰り返し合うのではなく、会話を通じての交流をさらに深く探っていく意志をもっているのだ。「まわりに対する私たちの反応、そしてその反応を言葉で表現すること、さらにそれに対する反応のフィードバック、そしてこういったさまざまな反応の間の関係を整理しそれを確認していく作業こそ、人間が内在秩序の流れの一部となるためのひとつの道なのである」とシェインバーグは語っている。

「自分が人とどういう会話を交わすか観察してみる」ってのは、目からウロコ。「意識の流動的な性質に心を開いているか」てのは、目からもっと別のものが出そう。ここは、非常にためになりました。前半のMVPじゃないかな。


<107ページ 健康と病気に境目なし より>
ドッシー(医師のラリー・ドッシー)が言うには、病気を何か自分とは別のものとして見るのをやめ、かわりにもっと大きな全体の一部として、また自分の行動や食事、睡眠、運動のパターン、それに世界全般と自分のさまざまな関わりなどから成るひとつの状況としてとらえるようになると、私たちはしばしば快方に向かう。

沖イズム。


<159ページ 機会の中に潜む小悪魔(グレムリン)たち より>
 もしも私たちの心が外に手を伸ばし、大量の玉の流れや機会の作動状態を変えることができるなら、いったいどんな不思議な錬金術がその力の源泉となっているのだろうか。ジャーンとダンの見解では、現在知られているあらゆる物理的プロセスが、すべて波動/粒子の二面性をもっていることを考えれば、意識もまた同様だと考えてもおかしくないはずだとしている。意識が粒子状態であるときには私たちの頭の中にあるように思えるが、その波動状態の側面では、ほかのすべての波動現象と同様に、離れたところに影響をおよぼす力をもつことが可能になる。二人は、この影響力のひとつが念力であると考えているのである。

日本語では、身近なところで言う「雰囲気」。なので、イメージの利用も「念力」合わせないとダメじゃないかと思う。ミス・ユニバースを育てるイネスおば様、なんか念力というか闘魂、注入してますよね。


<213ページ 奇跡と超常現象が意味するもの より>
ヴァージニア・インターモント・カレッジの心理学者で、やはりホログラフィック理論を支持しているキース・フロイドの言を借りるならこういうことになる。「誰もが当たり前の事実として知っていることとは裏腹に、脳が意識を生み出しているのではなく、意識のほうが表面上は脳と見えるものを創造しているのかもしれない。脳、物質、空間、時間、そのほか私たちが物理的宇宙と解釈したがるものすべてについても同じことが言える」。
 これはとりわけ心穏やかではいられない考えである。身体が固体であり客観的実在であるという確信はあまりに強いため、自分自身も狐火のようなものだなどという考えは抱いてみることさえ困難だからだ。だが、やはりそうなのだという強力な証拠がある。よく聖者にまつわる現象としてあげられるのが「二所同在」、つまり二カ所に同時にいられる能力である。

このへんから、ちょっとインドっぽくなってきます。アバターのお話。


<221ページ 人間の気場 より>
 現実がもつ波動の側面を見る能力が関わっていると思われる神秘的現象のひとつに、オーラとよばれる人間の「気の場(エネルギー・フィールド)」がある。人間の通常の知覚をわずかに超えた、身体のまわりにある微妙な気場、後光のような光の輪が存在しているという考えは、古代の伝統の数多く似に見出すことができる。インドでは、五○○○年以上昔にさかのぼる聖典の中で、これを「プラーナ」とよんでいる。中国では、紀元前三○○○年の時代からこれを「気」とよび、鍼灸でいう経絡を流れるエネルギーだと考えられてきた。紀元前六世紀に起こったユダヤ教の神秘哲学、カバラーでは、この生命原理を「ネフィーシュ」とよび、すべての人間のまわりには、光り輝く卵の形をした大きな泡があると教えている。

アーサナ中に気がどう流れているか、自分なりに感じることがあって、言うなれば『自分の体の外(皮膚に近いところ。胸、首の後ろと頭頂はけっこう広範囲)で、肉体の慣性の法則とプラーナヤーマの組合せで起こる「気のダンス」みたいなもの』。「肉体の慣性の法則とプラーナヤーマの組合せ」については、ものすごく微妙な感覚なので、この日記のポーズ紹介では意識的なことも含めて「ベクトル」という言葉で書いています。
でも、わたしはこういうのぜんぜん目では見えません。感覚だけで話すし、書いてます。


<260ページ 心と人間の気場 より>
 ドライヤー(超能力者で、リーディングをする人)も、人が反応を自覚するより先に気場のほうが反応してしまうことに気がついた。その結果、彼女は顧客の反応を顔の表情で判断しようとするのではなく、目を閉じたまま、その人の気場がどう反応するかを見きわめることにしたのだという。「話しながら相手の気場の色が変わるのが見えるの。私の言っていることについてどう感じているか、わざわざ聞かなくても見えるのね。たとえば場が全体にぼんやりしてきたら、私の言っていることが理解できていないというのがわかる、というように」と彼女は述べている。

気場の色でわかるって、どんな感じなんだろう。



ここまでが、前半。後半はインド比モーレツ・アップです。お楽しみに!

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