インドから戻って10月から読んだ本の中で、わりと向き合い方として時間をかけて、集中力を要される本が3冊ありました。そのうちのひとつ、「茶の本」は先月からご紹介してきたとおり。もう一冊が、この『タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』です。道場仲間が貸してくれました。
なんで集中力が必要だったかって、物理の話だからです。(茶の本は、英語でした)わたしは勉強ができる子ではありませんでしたから、物理や化学が得意だった人のようには読み進んでいけない。物理のお話が濃くなると、意図なく瞑想状態で思考停止してましたが、面白く読みました。
ものすごくボリュームのある本なので、日記での紹介を2回に分けます。今日は、この本自体の紹介と、第一部と第二部。(続きはこちら)
この本は1975にイギリスとアメリカで出版されたベストセラー本だそうで、日本の翻訳本の諸般は1979年。出版を計画したのは工作舎の松岡正剛氏、十川治江氏、編集作業者として内田美恵氏のお名前が巻末のお礼の言葉の対象者として登場しています。
エピローグにある表現をベースに要約しますが、この本は現代物理学の理論・モデルと東洋の神秘思想の観点の二者の類似性について探究し、それが何を意味しているのかを問うていく内容です。そして著者さんはこの書のエピローグの中で「われわれに必要なのは両者の統合ではなく、ダイナミックな相互作用」と述べています。
その後この本をきっかけに講演まわりがはじまって以降、数年後に書き添えられた「日本版によせて」のなかのコメントで、以下のように述べられています。
現代の文化的危機はどうやら、志向と価値観における陰と陽 ── 女性的なものと男性的なもの ── とのバランスの欠如に原因があるように思われる。われわれの文化ではつねに、陰よりも陽が、黙想よりも活動が、直観的な知識よりも合理的知識が、宗教よりも科学が、協調よりも競争が好まれてきた。この一面的な発展は、いまやきわめて憂慮すべき段階に達し、社会的・生態的・倫理的・神秘的な危機に直面してしまった。
末尾のエピローグの中にも、著者さんの取り組みの意向を理解するうえで、よい表現がありましたので紹介します。
<エピローグより>
物理学者の世界観と神秘家の世界観の相似性をはっきりさせるには、アプローチの違いにもかかわらず厳然と存在する類似性に目を向けてみればよい。まず第一に、両者のとる方法は完全に経験的だと言える。物理学者ならば実験によって、神秘家ならば瞑想をとおしての洞察によって知識を獲得する。
ともに観測し、観測を唯一の知識の源だとする点は共通している。もちろん、観測対象は、それぞれ異なっている。神秘家は内を見つめ、心の物質的なあらわれである身体を含むさまざまなレベルの意識を探究していく。実際、東洋では伝統的に身体的体験が強調され、身体こそが神秘体験への手がかりだとされている。健康な時には、身体の部分部分がとくに意識あれることはなく、統合された全体としてとらえられ、心地よく感じられる。同じように、神秘家は宇宙を身体の延長として体験し、全体が一体となっていると感じるのである。ラマ・ゴヴィンダはつぎのように言っている。覚醒した人間の意識のなかに宇宙はいだかれ、宇宙はその「身体」となる。肉体は、「全世界的意識」(ユニヴァーサル・マインド)のあらわれとなり、至高のリアリティは内的なヴィジョンに表現される。口をついてでる言葉は真言(マントラ)の力をもって永遠の真理を表現する。
沖正弘先生の名言「信じるな、疑うな、確かめろ」というのが、あらゆる場面でしっくりいく理由も、ここにありますね。
<エピローグより>
科学と神秘思想は、人間の心のなかにある相補的な合理的能力と直観的能力それぞれのあらわれである。物理学者ならば、合理的精神をとくに洗練して世界を経験し、神秘家は直観的精神をとぎすまして世界を経験していく。両者はアプローチがまったく違っていても、ともに、特定の物質的世界観以上のものに関わってくる。物理学者が現在使うようになってきた意味で、両者は相補的なのである。一方が他方を包括することもないし、どちらかに還元されることもない。ともに必要とされていて、世界をよりよく理解するうえで補い合う関係にある。
よくアーサナの説明に「ベクトル」「引力」という言葉を使いますが、物理の概念は、ヨガの理解を助けてくれることが本当に多いです。それを理解していくことは、「やり」続けることで見えてくる。実践・実験の積み重ねですね。
わくわくしますね。さっそく第一部「自然学のタオ」から、二箇所ご紹介します。
<39ページ 識ることと観ること 繰り返される神秘体験と科学実験 より>
東洋の神秘思想が知識を経験によって裏づける点は、科学が実験によって知識を裏づけるのに類似している。さらに、神秘体験のもつ性質がいっそう両者を近づける。東洋では、神秘体験は知力のおよぶ範囲を超えた直接的な洞察であり、思考ではなく見守ること、つまり内面を見つめ観察することによって獲得されるとされている。
そう、理解の工程は「こうしてやるー」とか「こうすればいいのか」ではなく、「ああこうなるんだ」ということ。「見守る」って、いい表現だなぁ。
<43ページ 識ることと観ること ど忘れと冗談の直観世界 より>
こうしたテクニック(瞑想方法)は基本的に、思考を停止し、合理的な意識を直感的なものへと転換させることを目的としている。多くの瞑想法では、呼吸とか真言(マントラ)とかマンダラとか、あるひとつのものに意識を集中させることによって、合理的な思考を停止させる。また、インドのヨーガや中国の太極拳のように、身体の動きに意識を集中し、思考の介入を防ぐといった手段がとられることもある。ヨーガや太極拳のリズミックな動きによっても、静的な瞑想と同じ不安と平静に導かれ得る。さらに、ある種のスポーツにも同じ働きが認められる。わたしの体験では、スキーなどはかなり有効な瞑想法になっている。
また、東洋では芸術も一種の瞑想である。芸術家の表現手段であるばかりか、直観を発達させ、自己実現をはかる方法ともなっている。
芸術と瞑想・ヨガの共通点についてはあまり書いてきていませんが、高校生の頃、毎日受験勉強としてデッサンをしまくっていました。ヨガをはじめて初期の頃、なんか、デッサンみたい。と思ったことを覚えています。(パリ旅行のアートな日記で、少しつぶやいたことがあります)
つづいて、第二部「東洋思想のタオ」。ここでは、おもにインドと中国の神秘思想からお話が展開しています。
<102ページ 変幻するブラフマン 「ヒンドゥー教」より>
ヒンドゥー教の自然観によると、すべての形態は相対的かつ流動的で、神劇の偉大な魔術師のつくりあげた、絶えず変わりゆくマーヤーである。マーヤーの世界は、ダイナミックなリーラで、その躍動的な力を「カルマ=業」という。「行為」という意味をもつこの言葉は、インド思想の重要な概念のひとつである。カルマは劇の中の活動的な要素、つまり、すべてが相互に関連した躍動する宇宙である。
(中略)
(以下その流れからの引用)あらゆる行為は、時の流れの中で自然の力によって織りなされている。勝手な妄想にとらわれた人間は、自分ひとりが行為者だと思いこんでいる。
しかし自然の力と行為の力の関係を識っている者は、それらの力がどのように働くかを理解し、その奴隷になることはない。
『バガヴァッド・ギータ』
カルマについて理解するとき、なんだか日本語の「ばちあたり」の「ばち」のような想起をされることって多いと思うのですが、「草は花と一緒なのよぅ」ということなんですね。「バガヴァッド・ギーター」は、インド人の禅問答だと思って読めば、そんなに難しくありません。
<111ページ 合一性と相互作用 「仏教」より>
マハーヤーナ教義を最初に展開したのは紀元一世紀に生まれたアシュヴァゴーシャ(馬鳴・めみょう)である。かれは仏教の開祖の中でももっとも深遠な思想家で、マハーヤーナ仏教の思想 ── とくに「あるがまま」(タタータ)の概念 ── を『大乗起信論』という小さな本に書き記した。その明晰かつ秀麗な文体はさまざまな意味で『バガヴァッド・ギータ』を思わせる。
(中略)
マハーヤーナ仏教のもっとも知的な哲学者、ナーガールジュナ(龍樹)はアシュヴァゴーシャから強い影響を受けたと思われる。かれは、ひじょうに洗練された論法で、リアリティに関する概念の限界を説き、明晰な論理で、当時の形而上学的命題を打破した。
(中略)
現実は根本的に空であるというナーガールジュナの言葉は、しばしば誤ってニヒリスト宣言と解釈される。しかし、かれのいわんとするところは、人間によって作られたリアリティに関するすべての概念が究極的には空(くう)であるということである。リアリティ、または空そのものは、なにもない状態ではなく、それこそすべての生命の根源であり、またすべてのもののエッセンスなのだ。
知っている人は知っている、佐々井さんばりにエロ男子だった龍樹さんに影響を与えたという「アシュヴァゴーシャ」さんに興味を持ちました。(そこかよ!)
<121ページ 社会性と宗教性の一致 「中国思想」より>
中国の考え方では、多過ぎるより足りない方が良く、やり過ぎるよりしない方が良いとされる。これではあまり進まないかもしれないが、着実に正しい方向に進むことができるからだ。東へ東へ行こうとする者が西にたどり着くように、財産をふやそうとして金ばかり貯めている者は、最終的には貧しくなってしまう。近代社会が「生活水準」を高めることによって、生活の質を落としているという事実を、この古代中国の知慧はみごろに立証している。
ううむ。ここは普通にうなりました。でもミッキーマウスをパクる精度については、しないほうが良いの判断が早すぎると思うの、中国。
<133ページ 陰陽の運動原理 「タオイズム」より>
タオイストの概念を語るにあたって、ひとつ頭に入れておかなければならないのは、変化とはなにかの力が加わって起こるのではなく、すべてのものごとに内在する傾向であるという点である。タオの動きは外から力が加わって起こるのではなく、自然で自発的なものである。自然性がタオの活動原理なのだ。人間のあり方も、タオにもとづくものであるから、人間の行動もすべて自発的でなければならない。つまり、タオイストにとって、自然と調和した行動とは、その人の本性にしたがい、自発的に行動することである。われわれをとりまくすべてのものに変化の法則が内在しているように、人間に内在する直観的知慧を信じるのである。
「変化とは、すべてのものごとに内在する傾向」。これはメモだ。
<134ページ 陰陽の運動原理 「タオイズム」より>
陰と陽は、中国文化を貫く根本的な原理であり、それは二大思想にも反映されている。儒教は理性的、男性的、行動的、そして支配的である。一方、タオイズムでは、直観的、女性的、神秘的、そして従順なものが協調される。
短い説明ですが、興味深かったです。「支配関係を理性的に判断して行動する男性」の比率が高まった組織には、タオ配合を増やさないと。
読みながら、「ここまで整理してくださって、ありがとうございます」と思うことしばしば。何度も同じ話が出てくるのだけど、その、「何度も」にも「あれも愛♪ これも愛♪ たぶん愛♪ きっと愛♪」(by 五木寛之氏)と同じ意味があって、まとめ表現のなかにある、踊り方のようなものでしょう。よくできた本とか、ありがたい教えとか、素晴らしい記録、といったものとはまた別の趣を感じました。
(この本の続きはこちらです)
現代物理学および東洋思想に興味の有る方は必読です
ニュー・サイエンスの古典的名著
神秘体験と量子物理のアナロジカルな対比