うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

体は全部知っている 吉本ばなな 著

生命の瞬間を切りとって繋ぐような文章で編まれた短編集。
家族や友だちとのなにげない関わりは「ただの日常」なのだけど、永久ではないからやっぱり少しせつない。そういう感情を文字で可視化されることで、「痛み」と「癒し」が同時にやってくる。
あとがきを読んだら、ばなな氏がいまのわたしと同じ年齢のときに書かれたもので、ほかの作品に比べて「あるねぇこういう流れで恋人のようになってしまうこととか、そうでないこととか」ということが多く、「もうかんべんしてくださいよ」というくらい見透かされたような話ばかりでした。


はじめの「アロエ」という話にでてくる、病院と日常を行き来するときのこころの摩擦の描写に、うっすらと感じたことのある「あのモヤモヤ」という感情がどんどんあぶり出される。
どのストーリーのなかにもそれがある。今日はネタバレにならない範囲で、ジーンときたりぐわーんときたくだりを紹介します。

<63ページ 黒いあげは より>
 止めることのできない時間は惜しむためだけでなく、美しい瞬間を次々に手に入れるために流れていく。

この本に格納されているすべてのストーリーに通じる雰囲気は、こういう感じだった。

<116ページ 明るい夕方 より>
きっとこうやって大勢の人がなんかや誰かを「憎んでおこう」と決めて、自分の中に眠る憎しみのパワーを全部とりあえずそこに注ぎ込んでそのもののせいにすることに中毒しているみたいな変な状態になって、戦争っておこるのかもしれない……のんきな思春期の私はそんなことを考えていたが、やはり、心は傷ついていた。

こういうことは「昔からある普遍的なもの」だと、信じたくないけど「やっぱりそうだ」ということから逃げられなくなるような。こういう追い込まれ方が、この人の文章に乗ると不思議と少しあたたかくなるのはなぜだろう。



次の引用部分は、ここ数年、同世代の友だちの存在感の色合いが変わってきていることをじわじわと感じているところだったので、涙が出た。

<118ページ 明るい夕方 より>
「手伝うよ。」
 彼女は言って、すぐに手伝いをはじめた。
 もしも私だったら、なにがあったかを聞いて、もっと相手を泣かせてしまっただろう。いっしょに怒ったり泣いたりしようとして、もっと相手をみじめにしただろう。しかし彼女は何も聞かず、ただ手を動かしはじめた。

「いっしょに怒ったり泣いたりしようとなんかせずに、ただそこで寄り添ってくれる」
こういうことで、何度も仲間たちに気持ちをすくわれてきたように思う。「わたしがみじめにならないように」という空気がいちいちあたたかくて、もうなにもいらない気持になる。それも、なにげない日常の中でのこと。


<169ページ おやじの味 より>
 仮住まいの夜、質素な食卓におやじの味。私の将来にはなにひとつ前向きなものはなく、ただ今現在があるのみだった。

別居している両親の父の仮住まいの家で、事情があって無職になった娘が日々を過ごす場面での描写。
わたしとは少し状況が違うけど、でも、おおむね一緒。なにもかもが(仮)で、明るい材料はないのだけど、なんとなくあたたかい瞬間もある。



次の引用は、父親よりも年上の男性からの「いわゆる、そういうニーズ」へ対応したあとの主人公の気持ち。

<211ページ いいかげん より>
この人にはもう生々しい欲望や、人を思い通りにしたいという気持ちを上回るほどの、死への渇望が感じられる。若い女に入れ込んで汚く死にたくないけれど、きれいに死にたくもない、でもとにかくこういうことがあるとうそでも嬉しいんだ、と新庄さんは言った。だからといって、それにもたれかかるほどばかではないと。

若い女に入れ込む」ことは別に汚いことではないと思うのだけど、そういう感情のからくりが沁みる。「いつまでも男でいいんですよ。オスなんだから」と思う。



ばなな氏の男女関係の性の描写を読んでいると、少しぐったりした朝と、どろりとした夜の感覚が身体的に蘇ったりして、短い文章でも重厚に感じる。
わたしはヨガのせいで、「軽快信奉者」になってしまったのかもしれないな。


ちなみにこの一冊のなかでは「サウンド・オブ・サイレンス」というストーリーがいちばん印象に残りました。
同世代の女性がこの13編を読んだ感想を、こっそり盗み見してみたい。そういう本でした。

よしもとばななさんの他の本への感想ログは「本棚」に置いてあります。

体は全部知っている (文春文庫)
吉本 ばなな
文藝春秋
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