うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

体癖 第一巻 野口晴哉 著

種や型についての各論は、自分なりに別途まとめようと思っています。今日は、それ以外の部分の感想。
2冊あるこの「体癖」の本は技術書ではなく、身体哲学の本です。巻頭には「体重配分計」のことや、こういうものの見かたにいたる経緯が書かれています。その後は、ひとの身体の物語が12編。
いままでにヨガで見てきたことをあらためて見直す、新しい気持ちと刺激のとりこになっている。
同時進行で他の本も読んでいるのだけど、この「体癖」の本に出てくる「喩え」に完全に心を盗まれた。喩えジゴロだ。
日本のラーマ・クリシュナと呼びたい。そのくらい面白かった。

<16ページ 体の自然とはなにか より>
キリンが速いといっても、ベントレーのアクセルを足先でちょっと踏むだけでたちまち追い越し、象でも持ち上げられぬ重いものでも、起重機のスイッチを入れただけでたちまち持ち上げてしまう。その為に費すエネルギーは、キリンや象の何千分、何万分の一の消費でしかない。人間の生活エネルギーは、他動物に比べて著しく余剰を来たしたとて不思議ではない。
 その余剰エネルギーはどこへ行くのだろう。他動物なら肉体の発達とか、体力の充実とかになるであろうが、既に肉体労力を不要としている人間にあっては肉体の発達の必要もない、その為十メートルの体格を持った人間には出会わないのであるが、そのエネルギーはいったいどこへ行ってしまうのだろうか。


(中略)


しかし欲求実現の為に他動物はその体を動かすのだが、人間生活の特徴はその大脳的行動にある。坐り込んで機械器具を使って、頭だけをせっせと使うのだから余剰運動エネルギーは、方向変えして感情となって鬱散するのは当然である。

「その余剰エネルギーはどこへ行くのだろう」。これが、身体哲学物語のはじまりなんだな。

<20ページ エネルギーの圧縮と凝固 より>
一度要求によって動員された潜在エネルギーは圧縮度が亢まると、その目的達成迄行動をやめない。意志で抑えればいよいよ亢まる。要求を引つ込めても一旦動き出すと止まらない。要求を果たしても余波がある。泣きじゃっくりとか、勢い余ってとか、騎虎の勢いにかられた行動をついとってしまう。人間の裡に、人間に背いて人間の行動せしむるものがあることを忘れてはならない。

「要求を果たしても余波がある」の余波は、ものすごく長いハレー彗星のようなものだと思う。何年も、何十年も。

<37ページ 体構造以前 より>
 物理学者的感受性と生物学者的感受性はどう違うのかということになると、牛を見て活潑な美しい形の動きを見るか、旨そうな肉塊と見て胃液の分泌を生ずるかという以上に複雑な相違があることは確かである。
しかし感受性が相違すれば動作も体の中の動きも変わり、動きが変われば体構造も変わってくる。そして各個人が生ずるのであるから、体癖素質を確かめるためには個人の凝集傾向、その現われとして体構造の運動特性を吟味、検討する必要が生ずる。ここでいう体構造とは、それを構成している物質のことではなく、その物質を保つはたらきのことであり、そのはたらきの方向こそ、個人をつくるものであるというのである。この点、生理解剖による体構造理解と少し異なったことを説くことになる。

カルマ(業)の話。それを構成している物質のことではなく、その物質を保つはたらきのこと。
これをヨガバージョンにすると、

自分をあやつるはたらきをしっているもののことを、ヨガでは "業(カルマ)" といっている
(沖正弘「ヨガによる 病気をなおす知恵」より)

となる。沖先生は、猛烈に野口先生に惚れこんでいたと思う。



さて、いつも野口先生の本を読むとゴロニャーン、となってしまうのだけど、
今回のはすごい。

<269ページ 九種とよく合う体癖 より>
八戒が三種の混りの捻れ型なら、悟空の方は五種と九種の動きを多分に含んでいる。そういう面からもう一度お読みになったらおもしろいと思います……。

西遊記は人のこころの成分の喩えに欠かせない鉄板材料。だいたいこの妖怪と坊主の4人がいれば説明できる。
うちこは八戒は七種の左右型と思っていたので、野口先生は七より三のほうを強く読みとったのかぁ、とマニアックに楽しんだ。ちなみに沙悟浄は典型的な一種と思う。悟空は超五種、というのは誰もがいちばんわかりやすくて、三蔵は十種の要素を多分に持ちながら、もー! となるときにちょっと四種が出るのが面白い。

<285ページ 開型の生理的傾向の特性 より>
開型の体は共通して野蛮であり、頭は純真で、俗世的にこまごまと働くことが不得意である。だから悪いことをした人であろうと、善いことをした人であろうと、抱え込んでしまえば同じように可愛がってしまう。そして計算もしない、利害損得も考えない。いや考えないのではなくて、考える頭がないというのが本当なのですけれど、そういう俗な考えを持たずに純真に行動出来る。だから年をとらないのです。

ここについて、ある人がズドーンと思い浮かんだ。そしたら、「体癖2」に関連する話が出てきた。

<続編の「体癖2」211ページ上下型九種 より>
 親鸞などは、この上下は少なかったのだろうと思います。法然のいうことをそのまま代訳している。自分で考える人は、ああも同じことを続けられない。法然は上下七種的な状況だっただろうと思うのです。

明記は無かったけれど、親鸞は十種の象徴のような人。野口先生もそう思っていただろう。
親鸞は、その「十種的なこと」が「悪人正機説」になっちゃったところがすごい。考える頭がないことによって生まれた思想と思うと、さらにおもしろくなる。


おもしろくてしょうがないです。ときめきが止まりません。


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