昨日の第一巻に続いて、今日は第二巻の紹介です。
この本は、過去の恋愛を思い出しながら読むと面白い。
「どんなに理屈が好きでも最終行動は理屈ではない」
と、はじめのほうで書かれていた。そういうことなのだ。
「わたしはあの頃、なんでこの人に惚れたのか」「なんであの人はわたしを好いたのか」と考えると自分の体癖がわかってしまうような面白さがある。
捻れ型九種だったという野口先生が、三種に一種が混ざった女に惹かれたエピソードが出てくる。うちこも捻れ型九種なのだけど、野口先生とは性別が違うのと、たぶん捻れ方も違うので(末尾に書きます)、三種・一種に惹かれたことはない。かえって、この違いを感じるのが面白かった。
(ちなみに今日のわたしのコメントは完全に身近な人の観察によるもので、200%私見エピソードです)
<79ページ 二種五種体癖 より>
二種は自分で見た事も、他人が見て断言した事も不安なのです。とにかく断言した事は駄目で、あいまいな噂の方を信じ、誰が言ったか判らないことを、判らないが故に信じられるのです。
「噂好きプライマル」って人がいる。いるというのがわかると、そうでない人はかなりラクになる。知っておいたほうがいい。
ここからは身近な人々を見ての勝手な統計ですが、二種は二種を好む傾向があるように思います。奇数種の人には「なんであのぼんやりさんたちが慕いあっているのかわからない」ということになる。アンニュイな共通温度の心地よさのようなものがあるのではないかな。
一・五・七・九種の人から見ると、二種の人はこちらからリップサービスでかなり持ち上げたりかまったりしないと関係が続かないので、仕事などの縛りがないと、すぐにリセットされる関係になる。同じ奇数でも三種はすぐにはそうならない。三種は少しここが見えちゃうんだろうな。切り捨てないやさしさなのか、深層での共感なのか。奇数の中でも三種は営業マンだったら唯一、偶数種に劣らない体癖のように思います。偶数は、二種・六種・十二種以外はそれぞれに魅力を活かした自分スタイルの営業ができると思う。行動力は奇数種のほうがあるんだけど、営業力は偶数種のほうが高いと思う。行動力はまた別の火種もあるからね。
<141ページ 複合体癖に於ける原型的な動き より>
弱いから強そうに振舞うのだと見るのは九種的な感じ方で、強そうに見えるから強いのだと思うのは、七種的な感じ方です。
何か奨めるのでも、その有利なことを一生懸命説くと、そのままそれに乗って買ってくれる人は、七種か八種の人です。五種なら冷静に見透かす。その二つが重なっているから、見透かして惑って、冷静でいて騙されてしまう。五種七種
という体癖は大変に面白い体癖です。
五種って、「これはこういう流れなんだよ」とかいいながら「それでもいいって、思ったの」とは言わずに参加してんだよね(笑)。でもそこで「まあこれも仕事ですから」とか言わないところが、(女でも)男らしい魅力でもあったりする。七種の人は、騙されたことをあとで「いや〜、あのときは。・・・でもあいつはさ」とおちゃめ武勇伝のように話せるところがチャームポイントかな、なんて思う。
「弱い犬ほどよく吠える」なんてことをいちいち分解するわたしは九種で、「まあこれも仕事ですから」って言っちゃうところがある。最近は「どうせなら気持ちよくさせてやっか」と楽しめるようになってきました。あとで好かれて面倒なのですが。
<156ページ 実習 ─ 腰椎の観察 より>
喧嘩も、お互いの特質を出すのです。割ってみて、ガラスか、水晶か、ダイヤモンドかを見分けるような具合に、それが判るのです。(中略)背骨の一つ一つを観ることが、私にとって楽しみなのは、一つ一つの背骨の変化が、こういう意味を持っているからなのです。
わたしも人のヨガをこういう目で変態的に楽しんでしまうところがある。
<174ページ 体重配分とその人の生活 より>
人間は八時間眠らなければ動物ではない。ごく頭の悪い人が三分の一働いて、三分の一遊び、三分の一寝るなどということを考え、信仰してしまっているから、八時間寝ないと何か借りがあるような気になって、今朝は早く起きたから眠いといって居眠りする。そう決めているからそうなるのです。
(中略)
二度寝していても、前配分の前が思い人は決断できる人で、二度寝をしても構わない。しかし後の重い人は二度寝することを治さないうちは決断力はつかない。
ここ面白いんだよなぁ。そして「重心の前配分と決断力」というのはヨガでもそうで、「決断力が高まる」とかいうポーズにはこの要素がある。心身ともに飛び込むときの体勢ってことなんだけど。
<204ページ 上下型との複合体癖 より>
捻れ型の七種は上下型や三種を追います。それは、七種が上下を理解できないからです。三種が上下を追うのも、上下が判らないからです。判らないという魅力が共通しているのです。
その判らないという魅力が自分の中で一緒になる、上下七種の人は、自分で自分が好きになってしまい、自分の方からしかものを見なくなってしまう。独処一方といって、自分の方からだけしか見ない。"我が仏尊し" なのです。パラノイアというのは精神病の一種ですが、自分の考え通り見ていって、その通りにいかないことは排除する。(中略)近頃はそういう人がだい分多くなっています。作家は普通自分の書いた小説が厭なのです。それは欠点が目について反省させられるからです。ところがある人は自分の書いた小説は全くいいと認めている。
書いてから何ヶ月もたっているのに、自信をもっていて反省しないのです。
「近頃はそういう人がだい分多くなっています。」といっているのは高度経済成長期後の話で、いまはこういう人が増える時代ではないように思います。メディアの形態が変わって、「自分で見る自分」ではなく「人から見られた自分」を想定して動く背景がそろった世の中だから。著者が自分の本を自分で宣伝する時代だし。
<207ページ 上下型との複合体癖 より>
七種は遮二無二努力します。そのために汗をかいてもそれが快感なのです。難行苦行してやらないと、何もやったような気がしない。だから断食道場へ行く人や、滝を浴びている人達を観ると、七種の人が多いのです。
ヨガにハマリまくる人は何に勝ちたいのか。
<216ページ 左右型との複合体癖 より>
三種・一種というのは、三種の形をしていて、上下の頭の働きがあるということです。(中略)田舎のインテリというのは大抵はそういうところなのですが、三種の中に一種があると、そういう言葉を言いたい要求、自分には訳の判らない一種的な表現が好きになる、好きになるというのは、それに応じた何らかがあるということなのです。だから三種の形をしている人が突然理屈を言い出した時には、眉に唾をつけて聞きます。
この話にいたる前段で、野口先生は「三種の女が一種への憧れのために一種の要素を取り込んだ(影響された)状態」に出くわし、うっかり惹かれてしまったというエピソードがあって、すごくおもしろかった。「九種は意外性に弱いのか? 気をつけよう。いや、もっと勉強しよう」と思った一説でした。
<220ページ 三種・七種 より>
三種・七種は三種だけなら胴が細いのに、七種が混じると胴が太くなるのです。七種は声がいい。(中略)ペギー葉山という歌い手などは、三種・七種の代表的な形をしています。だから歌も上手で、七種の歌い手よりはずっと柔らかで好感が持てる。
ところが、三種・七種に時間的ゆとりが出来てくると大変です。イライラの度合が純粋の七種よりもずっと多くなる。
ペギー葉山に時代を感じるとともに、「付き合ってたんかい!」と突っ込みたくなるほどの書き方がチャーミングすぎてたまりません。いいなぁペギー葉山(ジェラシー)。
<224ページ 左右型との複合体癖 より>
三種には、自信のある人が言った言葉に素直に従う要素がある。
銀座ナンバーワン王道系の才能ですよこれ。自信のある人の相手が苦にならない。九種女は持ち合わせない才能。
九種女は「自分は感性が鋭いと思っている男性に好かれる」というところがあるように思います。「感性が鋭いと思っていて自信がある男性」とはうまくいきません。「自信」のところへのリアクションや対応が行き届かないからです(笑)。
うちこは女性を「ああこの人はこういう男性に好かれるだろうな」と思いながら観察分解するのが趣味というか、たぶん特技なんですけれども、半分は「中のオッサン」がやってます。
冒頭で野口先生同様にわたしも捻れ型九種だと書きましたが、沖先生にしても、たいがいオタク的に掘り下げる傾向というのが九種で、なにかものの見かたを知るきっかけがあったりしたときに持ち合わせる要素なのではないかと思っています。自分の場合はヨガがきっかけではなくて、大学受験のデッサンで学んだ「こう描くとこう見える」という、遠近濃淡強弱の技巧、掛け合わせのロジック。それが、いまになってヨガでまた引っ張り出されているような感じです。
捻れのほうは、沖先生の本を読んでいた頃にそうだろうな、と思っていたものが、「体癖 第一巻」の捻れ型の説明で「やっぱり」と思いました。
- ものすごくイビキをかく。
- 下半身が右向きに捻れている。
- もともと脚を組む癖があったのだけど、高校時代以降で左脚を自然に上にしてしまうようになっていた。
- 左に向くマッツェンドラ・アーサナのほうがやりやすい。右ひじで押すからという意味ではなく、下半身がもともと左に向かっているほうが安定するから。
この「高校時代以降」というのが重要で、高校でソフトボールをかなり、大学でも軟式野球を少々やっていました。ソフトボールは社会人になってからもたまに。その後、30歳を過ぎてからヨガを始めました。
高校の頃は、キャッチャーで10番をつけていて、とにかく二塁で盗塁ランナーを抑えるのが人生最高の瞬間、とういくらい気持ちよくて、一塁に走者がいると「ランナー・カモン!」というおそろしく強気な捻れかたをしていたと思う。いつも左脚が前にでる体勢でいた。そこからものすごい勢いで投げるので、上半身は左向きに捻れてる。
沖先生が「イビキをかく人は、左膝が前に出ている」と書いているものを読んでギョッとして、そのルーツでもある野口先生の体癖の学びに触れて、「すげーっ」てなるのかと思うとそうでもなくて、デッサンみたいだなぁ。という思いが強くなりました。
野口先生や沖先生とは違う、いまの時代に生きていておもしろいと思うのは、これは以前にも書きましたが
- 人のプリミティブな感情や行動が文字で可視化されているものをたくさん見ることができる。
- 関係性の中から引き出される人の色合いを、関係性とともに見ることができる。
という、「デジタル社会が見せてくれるもの」という教材がたくさんあること。
野口先生も文章で体癖を見る人でしたが、うちこも同じような見かたを楽しんでいます。
きのう今日で紹介した体癖の本は、ボディワークをしない人でも心理学のようなものを学んでいる人にはすごくおもしろく読めるのではないかな、と思います。各種各型のことはさっぱりわからなくても、人の感情の起こりかたのルーツがたくさん書いてある。
各種各型のことは少し芸術的なところがあるように思うので、ライフハックものが好きそうな前後型のなかでも一種の人は、身近な人に当てはめて対応するソリューションがなくてイライラしちゃうかも。でもそこでイライラしたら「自分は一種だなぁ」と楽しんだらよいと思います。「自分次第」を自分次第で楽しめる、そんな教えです。
★文庫化されました!