うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

スピリチュアリティ革命 ― 現代霊性文化と開かれた宗教の可能性 樫尾直樹 著

この分野について語るときは、スタンスの明示がないと読み手の方との解釈との相違が発生します。それは普通によくあることなのだけど、とくにオウム以降の日本のヨーガの場面についていまヨーガをしている人が言及するときには、心の中でなにかを丸めているような気持ち悪さがそれぞれにあるのではないかと思います。


オウム以降のヨーガについてはこれまで沖道ヨガの方と話をしたり、それ以外にも宗教色を消して指導する「誤解へのリスクヘッジ」の場面を多く見てきました(気持ちはよくわかる)。
以前「霊性」についてカジュアルに書きましたが、日本人で「ヨガをやっている」者として、圧倒的にこの霊性に対する感覚には、なにか抑制されたものがある。
以前沖道ヨガの方がこんな話をしてくれました。


「沖ヨガの三島道場は上九一色村の近くにあったじゃない。あの事件の頃、うちの子供が道場を見にきたときに、『(テレビで見た)オウム真理教だ』と言ったんだよね。区別なんてつかないよ。子供は素直だよねぇ」


子供の素直さと同じ感覚で見たら、そうなんです。だって、ヨーガをしたら身体の調子がよくなるんですもの。よくできてるんだから。うちこの師匠のいう「ヨガは、昔インドの暇な人たちが考えてくれたの。僕たちは忙しいでしょ。だからね、とにかくその通りにやればいいのっ」という結果に何らかの権威をかぶせれば、宗教という体裁になる。身体の調子がよくなるから、信じるよねそれは。
問題は、そのあとなんですね。依存心がなければ権威は求めない。依存心のいくらかがちゃんと自分自身に向かっていれば、「宗教」の体裁を気にすることはない。

そこで、「これは宗教ではありません」と言いたくなってしまう日本。その背景を、この著者さんがわかりやすく解説してくれています。その部分を最初に紹介します。

<168ページ 宗教の復権/再編成としてのセラピー文化 より>
宗教が現代社会においてなかなか受け入れられないのは、織田信長石山本願寺焼打ち事件以降、そして徳川幕府の宗教統制からオウム真理教事件に至るまでの長きにわたる歴史的状況があるからである。しかし、共時的に見れば、宗教が、一般人に伝わりにくい専門用語を使用しているからであり、社会に対して理解を求める積極的な行動をとっていないからである。
 スピリチュアルケアの場面においては、ほとんどの場合、宗教の専門用語を持ち出すことはしない。この点が重要である。その代わりに、普通の言葉で宗教的メッセージを伝えなければならない。ここが「宗教的」ではなく「スピリチュアル」なケアと言われる所以である。とはいえ、普通の言葉で語って一般人に伝わらなければ、何の意味もないのであるから、普通の言葉で宗教的内容を伝達するというのは、言表上はともかく実質的には、至極まっとうな宗教的行為である。だから、スピリチュアルケアが宗教的かどうかを検討するのはまったくもって意味がないのである。
 ここは潔く、スピリチュアルケアは宗教的行為であると言ったほうが、宗教の真骨頂を社会に理解してもらえるのではないだろうか。宗教による真の救済は、まさにここにあるのではないだろうか。この意味で、宗教者が本来の宗教的役割を果たしているのが、スピリチュアルケアである。スピリチュアルケアは宗教の復権、復活、再生である、と解釈できる所以である。

そう、潔いとか潔くないとか意識をしなければいけない状況になった原因は、なにもオウム真理教だけじゃない。omという聖音のところはしょうがないけど。


そして、
「自己に向き合う=孤独から逃げられないことをあきらめる」ということだと思うのだけど、ヨーガは語源が「繋がる」だったりするので、そこを気持ちのいいように解釈してやたらに繋がりたがるのがヨガの世界でよく見られる光景。
「繋がる」要求は、 Facebooktwitter の状況を見ればわかるとおり、根源的なニーズ。テクノロジーがそれに乗っただけなんですね。なので「わざわざ修練している」ということと「繋がる」を結びつけようとするのは、きっかけはヨガじゃなくてもいいってことなんです。

<25ページ 現代の根本問題としての孤独 より>
ひとりでいても、あるいは、他人と一緒にいても、常に孤独感をぬぐい去ることはできない。それは、「共にある」という本源的感覚やイメージがないからというのではない。むしろ、それを通り越して、そうした感覚やイメージが不在であるという意識が欠如しているからである。本源的共同性の忘却の忘却と言ってもよい。ここに孤独の現代的な問題がある。

本源的共同性の忘却の忘却というところが、まさに自分のごまかし方でもある。


<56ページ 自己超越意識の構造 より>
 魂のレベルの上には、また異なった高次のレベルがある。魂のレベルが絶対的存在の具体的顕現であるのに対して、霊のレベルは、そこからさらに進んで絶対的存在と合一する。自己と宇宙との同一性、あるいは自己と絶対的存在との合一の意識という、超越性の究極的意識形態である。仏教の空、ヒンドゥーイズムの凡我一如、キリスト教神秘主義的コミュニオンなど、世界の宗教伝統、神秘主義が、その究極のまさに至高の意識状態、あるいは非意識状態と説明する意識状態である。
 絶対的存在と合一しているのであるから、二つが一つであるという意識すらないので、こうした意識を二元論に対する一元論的意識と呼ぶことすらできないし、呼んではいけない。「一性」と言ったときに、二元論的言語的世界に生きている私たちは、「非=一性」という観念を生み出してしまうからである。よって、そうした意識、あるいは意識ならざる意識は、非二元論的意識である。

【「一性」と言ったときに、二元論的言語的世界に生きている私たちは、「非=一性」という観念を生み出してしまうからである。】というところが、脳みそまで筋肉質のわたしが理解できないといって投げ出したくなる理由です。「二元論的言語的世界に生きている」という癖を修正するには、読みまくるなりなんなりの修練が必要なのでしょう。



<86ページ ローザクの霊的進化論 より>
 ローザクの議論でもっとも注目すべきは、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の、自己超越意識への到達過程に関する議論である。自己超越意識の最高段階であるサマーディに到達するためのヨーガの八段階の最初の段階に、ヤーマがあることに注目している。「ヤーマ」とは、「暴力、盗み、強欲、うそ、不節制を絶対的に拒否する」倫理である。


(文中の引用)


 パタンジャリは、深く、鋭く読むならば、倫理的純粋さをヨガの第一段階としている。しかし、その「第一段階」の恐るべき曖昧さ! なぜなら「第一」に来るのは準備なのだ。成就ではない。倫理が「始め」だと言えば、それは単に始めであるに過ぎないのか、ということになってしまう。ヤーマを越えたところにエクスタシーの戒規がある。サマーディにいたる長い、苦しい道程がある。ところがこれは西洋の宗教意識にとって何という侮辱だろう。私たちにとって精神的生活の山頂であるものが、ほかの伝統においては山の麓に過ぎないのだ。


 ローザクはここで、自己超越の危険性、すなわち、エクスタシーの意味の恣意性について注意を促している。この点は、スピリチュアリティの類型との関係からきわめて興味深い。ローザクは、個人意識的スピリチュアリティと社会倫理的スピリチュアリティの併存の重要性を指摘している。つまり、個人意識的スピリチュアリティと社会倫理的スピリチュアリティは、同時に探求しなければならない、ということだ。自己超越のエクスタシー状態の真偽が、厳密に共同体によって検証され、自己の体験の正統性を常に謙虚に反省しなければならない。個人意識的スピリチュアリティは、その端緒のところで、社会倫理的スピリチュアリティとリンクすることによって、自己の倫理性がチェックされなければ、十全に遂行できるものではないのである。

「これは西洋の宗教意識にとって何という侮辱だろう」というのが、わたしには感覚的によくわかりません。



<119ページ 日本的霊性における大地 より>
日本的霊性の大地性は、大拙によれば、鎌倉時代親鸞と共に出現したという。親鸞が京都から越後に流されることによって、「具体的事実としての大地の上に大地と共に生きている越後のいわゆる辺鄙の人々のあいだに起臥して、彼らの大地的霊性に触れたとき、自分の個己を通して超個己的なるものを経験したのである。」ここに、もののあわれ(自然の美しさとはかなさ)という情緒的次元に溜まっていた平安時代の貴族の精神的境位を超克して、日本的霊性が顕現することになる。

実家が柏崎から近いのですが、京都から追い出されてやってきた親鸞にとって、あの土地がどんなものであったかを想像すると興味深いです。「直伝だ、密教だ」なんていってる場合ではないことを実践してはみたものの、迫害されちゃった。という状況でやってきた越後。極寒の地で、人のぬくもりに対して思うところが多かったんじゃいかなと思うんです。当時の都の色欲と極寒の地の色欲はまったく別だと思うから。
そこで、「賛成の反対はなんだ?」と考えたときに、親鸞の思想が具現化してきたんじゃないかな、と妄想すると、とてもおもしろい。


<119ページ 日本的霊性における大地 より>
大拙スピリチュアリティ論では、第二章で考察したように、否定の契機が重要な位置を占めていることも急いで付け加えておかなければならない。大拙の「あること」、あるいは「あるがまま」の哲学には、「ある」という事態の二重否定がある。


鈴木大拙 1972年の著作物より引用)
 「ある」が「ある」でないということがあって、それが「あるがまま」に還るとき、それが本来の「あるがままのある」である。
これを日本的霊性の超出と言う。それは何かと言うに、絶対者の絶対愛を見付けたことである。この絶対愛は、その対象に向ってなんらの相対的条件を付さないで、それをそのままにあるがままの姿で、取入れるというところに、日本的霊性の直感があるのである。


 一旦否定することによって、その価値を認識する。その過程を経て、その対象を絶対肯定することで、みかけ上の「あるがまま」を受け入れる。こうした態度で観察される対象の背後には、二重写しされた否定の像がある。

ヨーガ・スートラにも出てくる「ネーティ、ネーティ」。
「それをそのままにあるがままの姿で、取入れる」というのは、インド人のほうが苦手だと思う。この「取り入れ力」はたしかに日本的。いったん否定しようとしてみたものの……という考え方には、確実にループしてきた四季の影響もあるんじゃないかと思っている。「まー、いうても冬はやってきちゃうしな」と。