野口氏の本を紹介するのは久しぶりですが、ここ数ヶ月のあいだ、野口整体や神経にはたらきかけるヨガを集中的に学んでいました。この本は初版が昭和52年の本です。
野口氏は沖先生と交流があり、歳も10歳違い。インドから日本へ帰ってきた沖先生にとって、10歳年上の人がすでに自身の身体論を展開し実践していたことは、かなり刺激的なことであったようで、沖先生の著作には感謝の対象者としてよく記載がされています。
野口氏の著作は、「集中」を「集注」と記載している点に統一性があり、ほかにも独特の言葉の使い方があります。数冊読んだなかで、この本はその思想を語るものとしてわかりやすい。巻末には整体体操の実践法を紹介する内容があるのですが、うちこにはまだわからないことが多い。ヨガのアーサナに変換して作用を想像できるものもあれば、そうでないものもある。修正体操にあまりアーサナっぽくないものが多いのは野口氏の影響だと思う。そういう作業もとても楽しいのですが、やはり読んでいておもしろいのは生命力についての語り。ヨガとはまた別の表現が登場します。野口氏の喩えもおもしろいですよ。
何箇所か紹介しますが、先にその思想がうかがえる箇所から。
<166ページ 自動操法 より>
これは整体体操法の技術でないのです。人間の健康のために、潜んでいる力を自覚し、発揮させるためにやっていくのであります。だから、みなさんが覚えただけでなくて、他の人にもどんどんこれを教えてあげて、そうして人間の体が、こわれたまま放っておけば、いつまででもこわれっ放しの古い自動車のようなつもりでいる人達の考えを訂正していただきたい。そして、しっかりと、生きている自分の、生きている限りはみんなよくなり、丈夫になるように出来ていることを、先ずみなさんが認識して、御自分の得た人間の観察というものを次へ伝えるようにしたら、病気になったままへばっているような人はいなくなるだろうと思うのです。やはり、自分の体は自分で管理し、自分で健康を保つように出来ているのです。そのために、ちょっと悪くても痛みを感じたり、ちょっと足が悪いと不便を感じたりするのです。
「そういうものなのです」というスタンスで身体のことを語られていたのは沖先生とまったく一緒なのですが、野口氏の場合は「インドではじめは無理矢理だったけどもやってみたら本当にそうなんだから、そうなんだ」ということではありません。のちの引用で紹介します。
<139ページ 愉気とその働き より>
集めた気を手から他に移すこと……手からでなくても、目からでも、心からでも、何からでも構いません。それが愉気法の基なのです。例えば、怨念でも、執念でも、精神集注には相違ないのです。だから相手に伝わって行き、感応するのが当然です。しかし、そんな気は移してもしょうがない。愉快な気を移していこうとするのが「愉気」という言葉を使い出した理由です。
すてきな由来。「インドの聖者がたがおっしゃるアレ」や「ガンダムのニュータイプのアレ」をこんなふうに料理するところが偉大。気とかプラーナにベクトルがついたもの。
<31ページ 私の生命観 より>
キュウリとナスを同じ土に植えても、キュウリは緑になり、ナスは紫になるように、構成要素で違ってきます。同じ土に植えたのに、何が違うのかと言えば、それらの要素を集める力が違うのです。その力の内容で、それぞれ、いろいろの要素を集めてそうなる。だから生きているという実体は、そういう集める力にあるのであって、集められるものにあるのではない。どんなに注ぎ足しても、変えても、生命というものには直接の影響を大して与えることもない。非常に乱暴な結論ですが、私はそう確信しているのです。
「集める力」という考え方が、ヨガのカルマとはまた少し違った言い方なんだけど、「自然に取りにいくもの」というところに、超自然的な「はからわなさ」を感じる。
<34ページ 死ぬか、死なないか より>
(要約)
野口氏はまず死ぬかしなないかということを観る方法を、子供の頃に気づいてしまったそうです。生きる者は、お腹が動いているからお腹に力がある。死体には丹田がない。
それで、死ぬときに出てくる共通の変化に気づいたのだそうです。それが、今でいう(当時でいう)禁点の硬結で、これがでると四日目に死ぬのだそうです。
これがわかるのが12歳くらいのときに評判になって、子供の頃は自分の言ったことがその人にどんな影響を与えるのかわからなかったのだけど、のちにやめたそうです。
(以下引用)
そのため、治してもらいたいという人よりは、診てもらいたいという人の方が多かったかも知れないくらいです。だから、今より昔の方が、当るということで信頼をして来る人が多かったのです。それこそ「門前市を成す」というような状態でした。つまり「死にます」「死にません」を言い当てることが人気のもとだったのでしょう。
そういうことで先ず、人の「生きる」「死ぬ」を見つけました。そしてそれからは、人は死ななければよくなるのだと思って観るようになりました。
ところが、死なないのによくならない人もいるのです。自分の心で、自分の頭で病気をつくっている人、病気を保身術と心得て、治ったら大変だと思っている人達・・・戦後、傷病兵の人達が、治ったら失業だ、病院を出なくてはならない、治りさえしなければ楽に食べていけるということで、病気の治ることを恐れていましたが、それと同じに、病気のお陰で権力を保ちたい人が、「ああ、痛くてたまらない、ちょっと背中をなでてくれ」と言うと、健康な人はいくら忙しくても時間を割かなければならない。「アッ、苦しい! 早く水を!」などと言われると、汲んでやらなくてはならない。そういうように、病気を保護色の代わりに使っている人達、無能無力で出世のできないことを病気の所為にするとか、嫌だといえないために病気だからサービス出来ないと言い訳したり、病気をそういう面に利用している人達は、やはりよくならないのです。
「死なないのによくならない人」への着目から、野口氏は変わっていきます。
<38ページ 「気」 より>
私はそうして心や体の働きをつなぐものは何かを観てまいりました。元気とか、不機嫌とか、気という言葉はいろいろに使われておりますけれども、さて、その気とは何かというと、なかなか答えられない。外国の人達は、オーラとか、ミトゲン線とかいう言葉で説明しておりましたが、それらを丁寧に観ていきますと、それはみんな体の中にある細かい物質の分散なのです。
しかし、私のいう人間の気とは、そういう細かい物質の分散ではなく、分散する力なのです。必要なものを集めてくる力、不必要なものを捨てていく、分散していく力をいうのです。細かく分散されたもの、それが気ではないのです。物質を吸収したり発散したりする力、それが気である、心と体をつなぐ力、それが気なのです。だから精神の集注の密度が濃くなると、気は旺んになります。体を動かすことが活撥になると、気も旺んになります。
集中や分散の現象ではなく、その「力」。うちこが日々「グイグイ感×ベクトル」という言葉でしか言えないものと似たものを感じます。
<43ページ 「人間の適応性と生きる力」 より>
心配を愉気したり、熱を下げようなどと思って愉気をしたら、それは違ってしまうのです。相手の中の力を観なくてはならない。生きていくという、その力を信頼しなくてはならない。我々自身がそれを信頼しなくては何もやれません。そして、生きている人をおっかなびっくり観ているようでは、人を指導する資格はない、あるいはその力がないと言っていいと思うのです。
これわかるなぁ。ヨガの教室でも、「求めているのはこれでよろしかったでしょうか?」という感じで対応されると萎えてしまう。「求めているのは、これかもね」くらいがちょうどいい。自分が主役になっている比率が多い状態は、相手に伝わってしまう。これは営業マンのほうが身で覚えているかも。
<56ページ 「第二章 勝元運動」 より>
昔と言っても、戦後の直後に、いろいろな新興宗教が出来たころ、宗教をやる人達は何か不思議なことをやらないと都合が悪いのでしょう。私のところに精神集注する術や、活元運動や愉気の方法 ── を習いに来ました。教えたのが良かったか悪かったか……今になってみると、その人達は外路系の活元運動をやらないし、精神集注の術としての愉気を行なわないで、それをみんな信仰のお陰だと言って、奇跡を行うつもりになっている。しかし活元運動も愉気もそういうものではない。私は、総ての人がもっている力、自然の働きとして、受け容れて欲しかったのです。そのように受け容れられていたならば、こんなに病人が多くはならなかったと思うのです。実際い、信仰や、徳や修行でやれるようになったなどというために、誰れも自分の裡なる力に目覚めない。活元運動は、自分の裡なる力に目覚めて、初めて自分のものになるのです。それを、みんな偉い人の徳の所為や、信仰の所為にされてしまうことは大変迷惑で、その当時、教えたことを、今になってちょっとがっかりしています。
ものすごく素直ながっかり発言。自立を促したつもりが依存されちゃったと。スピリチュアルマーケットとして消費されることへのがっかりが、「修練継続しないのかよ……」ということに尽きるのはどの分野も一緒。「魔法の杖」はないのだけどね。
<90ページ 「第二章 活元運動」 より>
痛いのを早く楽にしてやろうとか、熱が高いのを早く平熱にしてやろうとかいう、女学生が猫を可愛がるような親切を押しつけているのです。それが出発点となって、庇うことばかりする。それが却って病人を増長させるのです。そして渾身のサービスをして、その上、よく言われない。大便がなかなか出ないのは、あのお医者さんの気張り方が下手だからとか、薬が効かないからだとか、何でも他のせいにして自分の裡に働く力で立ち上がることを考えない。自分の大便は人が気張っても出ないことは誰れでも知っている筈なのに、病気になると、そうは思わない。
大便の喩えがいいですね。
<218ページ 「回春体操」より(全文) >
これは、若くて老人になっている人のための体操です。
俯せになって下さい。相手の両足を少し開いて折って自分の足をその膝下にかませ、足をお尻の外側に出来るだけ押しつける。そして相手が息を耐えようとして吸う寸前に自分の足をスッと外してストンと落とす。分娩のあと、お尻が下がっていたり、いわゆる大股に歩けなくて、小股に歩くようになったりする人に、これをやると、大股に歩けるようになります。つまり骨盤の位置が上がるのです。これは昔、老人専門の体操でしたが、老人が若返って長く生きては困る時代になりましたので、若いのに老人になっている人だけに教えようと、そう思ったわけです。だからインポテントとか、あるいは生殖器の機能が不完全な場合に、この体操をやります。
自分で足を折り返して足首を引っ張っていて、パタッとやっても宜しいです。包茎などというのも、これをやると普通になってきいます。だから、結婚するという人には教えます。結婚用体操とでもいいますか。いろいろな使い方がございますが、余り一度にお教えしても忘れてしまうといけないから、これ位にしましょう。
「老人が若返って長く生きては困る時代になりましたので」とは(笑)。ものすごく関心のあるワードですしね。
ちなみに歩幅というのはたしかに気力のあらわれ、と思います。
気空の上での「グイグイ感×ベクトル」がゆっくり、長く使える人は強いと思う。
最後にちょっとおちゃめな部分を紹介しましたが、野口氏の場合はけっこう辛口なんだけど、「ぼやき×辛口×おちゃめ」のバランスがたまらない。川端康成似で、いまひとつギャグに追い風が乗るビジュアルではないのと、関西人でもないので、そこはたまに出る表現を楽しむ。
この点の楽しみ方では「佐保田先生>野口先生>沖先生」の順になります(当ブログ調べ)。
確信したことを自身の言葉で語られる書物がどんどん減っていくなかで、いまでもものすごく力があるし、沖先生ほどには「いま言ったらギリギリ」な表現がない。「超・自然」を自身の感覚と確信で話してきた人だからかもしれません。