うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

国家は身体を操作したか(「寝ながら学べる構造主義」より)

以前紹介した「寝ながら学べる構造主義」のなかから、ひとつの章をアジェンダとして切り出す形で、現代に生きるわたしが見た価値観で感想を書きます。本編の章は「国家は身体を操作する」という題で、『思想する「からだ」』(竹内敏晴 著)に書かれている内容が引用されています。その内容に内田樹氏の見解がかぶせられる形の構成。

「体育座り」を題材にその普及の経緯から展開していきます。
この内容には「一概にはそうとも言えないのではないか」と思うところがあり、それはわたしが日々感じる身体観からの感想です。

<104ページ 国家は身体を操作する より>
 権力が身体に「刻印を押し、訓育し、責めさいなんだ」実例を一つ挙げておきましょう。一九六○年代から全国の小中学校に普及した「体育坐り」あるいは「三角坐り」と呼ばれるものです。
 ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。両手を組ませるのは「手遊び」をさせないためです。首も左右にうまく動きませんので、注意散漫になることを防止できます。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出ません。竹内はこう書いています。


「古くからの日本語の用法で言えば、これは子どもを『手も足も出せない』有様に縛りつけている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢をとってみればすぐに気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは『息を殺している』姿勢である。手も足も出せず息を殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。」(竹内敏晴『思想する「からだ」』)


 生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統制姿勢を考えた末に、教師たちはこの坐り方にたどりついたのです。しかし、もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。浅い呼吸、こわばった背中、痺れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。
 竹内によれば、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で、一九五八年のことだそうです。これは日本の戦後教育が行ったもっとも陰湿で残酷な「身体の政治技術」の行使の実例だと思います。

強めな言い方で書くと「文部省が子どもたちを奴隷のように縛ることを慣習化するよう定めた」とでもいうかのような内容なのです。ここをはじめに読んだとき、興味深いと思いつつも、なにかがひっかかりました。それは、うちこがまさにこれを「事実、楽と感じる」世代であり、身体的な面でいうと「拘束しているとは一概にはいえない」部分があると感じるからです。


まず「体育座り」は、仙骨を立てようとしなければ、非常に楽な部分が実際にあったりします。ふだん他者の中に自分を置きながら知らぬ間に緊張して狭くなっている胸の裏を開いてくれます。ウサギのポーズ(シャシャンカ・アーサナ)と同じ効用です。この許容範囲を与えている点では、親切な感じがします。
また、組んだ手からつながる「引っ張り」は、呼吸の量や強さを自己認識しやすい「ものさしの効果」がある。あの範囲で、遊んでいるわけです。


別の視点で、この姿勢は多くの人に一律で強いる場面においてはなかなかいい着地点ではないかと思ったりします。膝を畳んだ上に体重をかける正座(ヴァジュラ・アーサナ)は、西洋式の家庭で育った人には過酷です。昔お侍さんがすぐに相手を斬れないようにという意図があったと、なにかの本で読んだか、聞いたことがあることも思い出しました。
あぐら的な座り方も同様です。足首の硬い人には、たとえ反対の足に片足すら乗せていない状態であっても、足首の外側を伸ばす生活習慣的な姿勢がない人にはキツい。
そして、ありえませんがいちおう書いておくと、いわゆる「おばあちゃん座り」といわれる正座からかかとを開いてその間に尻をおくのも、そうです、膝の外回転や足首の外回転なんぞはもう、人によっては拷問です。
長座(パスチモッターナ的な)ものは、膝も伸びるし腹筋も程良く使うしで、わたし的にはかなり推奨なのですが、集団で行なうにはスペース的に効率が悪すぎる。


こうやって考えていくと、地面に座ったりしゃがんで作業をすることが減っていく生活様式の変化の中で、体育座りはなかなかの発明ではないかと思ったりします。(肥満児にやさしくない点を除いては)
むしろわたしの視点で残念だと思うのは、「腹筋を使わないでオッケーな感じ」だったりします。ずっと仙骨後ろ倒しでも、まあオッケーっすよ。という形になっています。ここでは胸を圧迫していると書かれていましたが、言い換えると「胸を閉じててもオッケーっすよ」ということになるので。
「長座から膝を畳んでみた」という形のなりゆきと、「脚に負担がなくすぐに立ち上がりやすい」という合理性を考えたら、そんなに拘束感のある姿勢ではないと思います。


呼吸については、たしかに深く吸えないし大きな声も出しにくい。これは本当におっしゃる通り。


「そのツッコミはマニアックすぎるよ」といわれるかもしれませんが、多角的に身体を意識することがなかったら、この章を読んで「ほんとだ! ひどい」という意識に引っ張られていたかもしれない。子どもや弱者を題材にされると、特にそういう引力が働くので。
本を読んでいると「なるほど」と思うことがたくさんあるけれど、自分の感覚で疑ってみる読み方ができるくらいの冷静さは、強く気持ちを引っ張る力のある主張や弁論に出会ったときも忘れずにいたいものだ、と思いました。

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